「マイ・ブラザー」ジム・シェリダン


疎開生活が終ると決まった途端に腑抜けた存在になる。働く働かないでどぎまぎする社会は一日も早く破壊しなければ。
腑抜けから逃避するため武蔵野館に。海兵隊員と家族の物語。アフガニスタンへの出兵と刑務所から弟が出所するところから始まる。アフガニスタンで死亡したことが一度は家族に告げられたものの、生還することになる。家族との生活が耐え難く感じられる生還後の主人公は、娘の誕生日パーティーで感情のコントロールを失う。風船を爪でひっかく音を出し続ける娘に対して怒鳴り声をあげる。警察に逮捕されることになる拳銃の発砲音よりもこの風船を爪でひっかく雑音がこの映画全編を貫いている音と感じる。罵り合い、励まし合うためにコトバが飛び交う家族の空間は風船をひっかく音で全てがその場しのぎの慰めに過ぎないものになる。一度戦争に関わると後戻り不能の「その後」の世界を耐えるだけの時間が待っている。帰還兵の生は日常生活を満たす家族の声が遠のき、再び発せられるかもしれないゴム風船を爪でひっかく音が鳴ることに怯えながらも、ゴムから発せられる雑音が鳴り続ける環境こそが戦争から生還した生の場所だということをどこかで感じつつ徒にやり過ごすほか生きる術がない。

「WHIP IT」ドリュー・バリモア


ハローワークの灰皿が撤去。日比谷のシャンテ前、高島忠夫らの手形が足元に配されている広場の灰皿も撤去されている。映画の日だということを忘れ前売りを購入してしまう。バリモア初監督作品「ローラーガールズ・ダイアリーズ」。「二番目のキス」(ファレリー兄弟)で共演したジミー・ファーロンがこの映画にも。「ペーパー・ファミリー」(チャールズ・シャイヤー)で両親と離縁する少女を演じた後、実人生においても離婚した母親と離縁した彼女。華やかな子役時代を経て映画出演とは無縁のアルコールとドラッグに塗れた青春時代を過ごした彼女。今回の映画ではエレン・ペイジを主演にしてテキサスの田舎町の少女が家族の鬱陶しさを超えてローラースケート競技に目覚め、家族と共に成長していく物語を見せる。でもバリモアは最初からそんな「田舎少女の成長譚」には興味がない。虚実共に両親との絶縁を選んだ彼女はやがて自らが母親になってしまうような男女間の恋愛関係を経ずに共に生きてゆけるかを、言い換えれば「子どものまま」いつまでも生きてゆけるかをバリモアは模索してきた、しているような気がしてならない。言い過ぎかもしれないがそれこそ「レスビアン的」とでも言えそうなローラースケートチームの女性同士の親密さや主人公とボーイフレンドとのあっけない破局や「父」や「コーチ」、「恋人」として登場する男性がどこまでも背景に追いやられているように見える遠近感。「夢見る少女」で有り続けるための具体的な戦略として「男性を信用しない」、というか「男性はいらない」とはっきり言ってしまうような「男性不要論」がいよいよ自らの監督作品としてのこの映画に全面展開され始めている。「田舎少女の成長物語」というアメリカ映画のクリシェはレスビアン的女性集団の介入によって親子という関係と男女間の恋愛をそっちのけにして何度も見た事のある風景をそっくりそのまま少女が「夢を見続けられる場所」に仕立て上げられた。

引き続きベンヤミン。「歴史哲学テーゼ」ではなく、それを準備していた時期に書かれたらしい断片から。

いわゆる破局(カタストロフ)の概念のもとに描出される歴史過程は、子どもが手にする万華鏡と同じで、ほんらい、もはや思考する人間を必要としない。万華鏡を廻せば、作られた秩序が交替する。それももっともだ。支配者のもつ諸概念はいつでも、「秩序」のイメージを生みだす鏡だった。この万華鏡を叩きこわさなくてはならない。「セントラル・パーク」

「解放された人類」がどんな状態のなかにいるか、とか、そういった状態はどういう諸条件のもとで出現するか、とか、その出現はいつごろに可能になるか、とかいったことを知りたがる者は、答えのない問いを提出しているのだ。そういう問いは、紫外線の色はどんな色か、と問うこととあまり違わない。「遺稿」

でもって晶文社の著作集で「歴史哲学テーゼ」解説に付けられた野村修のテキストから。

これらの断章や「テーゼ」から知られるように、ベンヤミンの歴史意識は危機の時代の意識であり、その意味でぼくらにも身近なものたらざるをえない。いまも支配階級は、たえまなくいたるところに「非常事態」をつくりだし、かれらの暴力装置を維持しつづけている。アウシュヴィッツと広島の現在であるこの装置の持続を切断するー歴史の連続を断ち切るーためには、ぼくらは、ぼくらのイニシアティブによって(いわば下から)「真の非常事態」をもたらす以外に道をもたない。そのばあい、ぼくらは、ぼくらの思考の構造そのものが、国家の権力構造のヴェクトルに沿って組織されていることを、自覚しなければならぬ。ぼくらは、たとえば「進歩」の、あるいは「改革」の名によって、つまり未来への甘ったれたよりかかりによって、悪しき現在の持続を許容してはいないのか。「ひとつの例外もなく、戦慄をおぼえずには考えられないような由来をもっている」文化財にかこまれ、体制の網の目にからめとられているぼくらの惰性的な思考を、ぼくらは断固として停止し、全面否定を思考の原理としなくてはならない。そういう否定的な態度は非現実的であり、積極的とはいえない、という声はもちろんあるだろうが、しかし否定こそが、現状況ではおそらくあらゆる積極的な目的の設定にさきだつ、まず第一の積極性なのである。

さあ、何から壊そうかな。

「新しい天使」パウル・クレー

 被抑圧者の伝統は、ぼくらがそのなかに生きている「非常事態」が、非常ならぬ通常の状態であることを教える。ぼくらはこれに応じた歴史概念を形成せねばならない。このばあい、真の非常事態を招きよせることが、ぼくらの目前の課題となる。それができれば、ぼくらの反ファシズム闘争の陣地は、強化されるだろう。ファシズムにすくなからずチャンスをあたえているのは、ファシズム対抗者たちが、歴史の規則としての進歩の名において、ファシズムに対抗していることなのだ。ーぼくらが経験しているものごとが20世紀でも「まだ」可能なのか、といったおどろきは、なんら哲学的では<ない>。それは認識の発端となるおどろきではない。もしそれが、そんなおどろきを生みだすような歴史像は支持できぬ、という認識のきっかけとなるのでないならば。

 わたしの翼は飛びたつ用意ができている、
 わたしは帰れれば帰りたい、
 たとえ生涯のあいだ、ここにいようと
 わたしは幸福になれぬだろう。
  ゲルハルト・ショーレム「天使のあいさつ」

「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使はかれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、この強風なのだ。

「グリーン・ゾーン」ポール・グリーングラス


「七転び八起き」に騙されぬよう。どうも起きる必要はないことに気が付く。「何をされてるの?」と尋ねられたら「失業中です」ではなく「疎開中です」と笑顔で応えることにしよう。爽やかに陽光溢れ出した今日はベンヤミンをゆっくり書き写して過ごそう。

「人間の感情のもっとも注目すべき特質のひとつは」とロッツェはいう、「個々人としては多くの我欲があるにもかかわらず、人間全体としては現在が未来にたいして羨望をおぼえないことだ。」よく考えてみるとわかるが、ぼくらがはぐくむ幸福のイメージには、時代の色ーこの時代のなかへぼくらを追いこんだのは、ぼくら自身の生活の過程であるーが、隅から隅までしみついている。ぼくらの羨望をよびさましうる幸福は、ぼくらと語りあう可能性があった人間や、ぼくらに身をゆだねる可能性があった女とともに、ぼくらが呼吸した空気のなかにしかない。いいかえれば、幸福のイメージには、解放(Erlösung)のイメージがかたく結びついている。歴史の対象とされる過去のイメージについても、事情は同じだ。過去という本には時代ごとに新たな索引が附され、索引は過去の解放を指示する。かつての諸世代とぼくらの世代との間にはひそかな約束があり、ぼくらはかれらの期待をになって、この地上に出てきたのだ。ぼくらには、ぼくらに先行したあらゆる世代にひとしく、<かすか>ながらもメシア的な能力が附与されているが、過去はこの能力に期待している。この期待には、なかなかにはこたえられぬ。歴史的唯物論者は、そのことをよく知っている。(「歴史哲学テーゼ」「ヴァルター・ベンヤミン著作集 �」 晶文社

ベンヤミンのいう「星位」(コンステラツィオーン)の概念が気になっていたら、「パサージュ論」で語られているらしい。うーむ。「パサージュ論」がない。翻訳といい本文設計といい注釈といいすべてが気持ちよい晶文社の著作集で読みたいのだけど「パサージュ論」が見当たらない。「一方通行路」と題された10巻目がそれなのか。探しにいこ。「歴史哲学テーゼ」は全文引用していきたいほど身に滲みる。何よりベンヤミンはいつでも優しくて強い。強くて優しいのではなくて優しいの方が先で強いが後。優しいから強い。現在がどこか遠くと繋がっている。遠くで類似している。今こことどこか遠くが星座を形作っている。ぼくらとかつての誰かには「ひそかな約束」がある。我欲はいくらでも裏切ってもいいから遠く彼方で似ている人たちとの約束は破らないようにしなきゃね。
グリーン・ゾーン」はブライアン・ヘルゲランド脚本。「ボーン・アルティメイタム」だか「ボーン・スプレマシー」だかなんだか分からなくなってるけど、マット・デイモンは相変わらず右往左往。合衆国の「テロとの戦い」を論理的に始め、継続するための端緒となったいきさつを「これは始めから陰謀論ですよ」とばかりに淡々と語ってゆく。それはどこか「脚本通りに映像を付けました」というか「脚本を読んで頂ければ分かりますけど映画なので映像も一応撮りました」と思えるほど、あっけらかんとしている。たかだか10年、20年の「現実」にばかり向き合っているようではぼくらに「かすか」ながらも備わっている「メシア的な能力」を「解放」に向けて発揮するにはほど遠いな。

「来たるべき蜂起」不可視委員会

2010年5月。「来たるべき蜂起」(不可視委員会)邦訳の刊行と同時に世界中で蜂起が始まる。発生地域ごとに関連があるわけではない。誰かがリーダーとなって指揮しているわけではない。自然発生的にそれは始まっている。都市中産階級の無力感はそっくりそのまま力に反転して学生たちの蜂起に接続される。カレンダーの日付の羅列はもはや意味をなさなくなり、あれだけ嫌悪していた日常はいつのまにか過去のものになる。今がいつか、ここがどこか、私は誰か、といったことが溶解し始める。歴史は繰り返さない。歴史は終らない。それぞれがそれぞれの場所で歴史を始める。始めることしかできなくなる。長く続いた諦念が社会を支えるのではない。バカにされ続けたキレイごとの叛乱が始まる。身体と精神はねじれ始める。もう元には戻らない。

2010年5月 アテネ

2010年5月 ネパール

2010年4月 ハンブルグ

2010年5月 ベルリン

2010年5月 マカオ

2010年5月 ボゴタ

動悸がとまらない

アイスランドの噴煙がいっそのこと世界中に広まって航空機による流通が全て止まってしまえばいいのに、と不埒なことばかりが頭の中をめぐっている。自分にとっても他人にとってもどうでもいいものでしかないこの停滞感から抜け出すためにはどう動いたらよいのかと思案すればするほどブレーキは断続的に効いてくる。晴れた空を見たり窓から差し込む光を眺めてみることくらいしか内部で鳴り続ける動悸を止める仕方が見つからない。よくもまあ今まで生きてこれたものだ。脳内のメモリを全て消去して再起動できたらいいのだけれど、その方法も分からない今となっては日に日に少なくなってゆく意識の中を駆け巡るコトバといやいや付き合うほかないのか。はてさてこれからどうなることやら。自らを殺めるひとのキモチが少しだけ理解できるような気がしている。

ブランショふたつ

68年5月は、容認されたあるいは期待された社会的諸形態を根底から揺るがせる祝祭のように、不意に訪れた幸福な出会いの中で、爆発的なコミュニケーションが、言いかえれば各人に階級や年齢、性や文化の相違をこえて、初対面の人と彼らがまさしく見なれた-未知の人であるがゆえにすでに仲のいい友人のようにして付き合うことができるような、そんな開域が、企ても謀議もなしに発現しうる(発現の通常の諸形態をはるかにこえて発現する)のだということをはっきりと示して見せた。(「来るべき共同体」)

何かについて書く、ということはいずれにせよ適切さを欠いている。しかし、人が何かについて書くこと-銘文、注釈、分析、讃辞、弾劾-をもはや断じて許すまいとする(とりわけ)そのためにこそある出来事についてなお書くということ、それはこの出来事をあらかじめ歪曲し、つねにすでに取り逃されたものとしてしまうことにほかならない。それゆえわれわれは、<5月>に起こったこと起こらなかったことについて書くということは決してすまい。敬意からでもなく、出来事に輪郭を与えることでそれを限定してしまうまいという配慮からでもなく。われわれは、この拒否が、エクリチュールとの断絶の決意とが結びつくひとつの地点であることを認めている。その二つは切迫したつねに予測不可能なものなのだ。(「ビラ・ステッカー・パンフレット」)

周囲は畑だらけの地域に住んでいると春には春の匂いがあることが分かる。歩いていると、自転車に乗ると、小走りすると、それぞれ少しずつ異なる匂いがしているように感じる。畑の真ん中に礼儀正しく咲くチューリップは花弁の外側を橙に内側を黄色にしながらお互いの色の区別がついていないかのようにみなで南側を向いている。