「WHIP IT」ドリュー・バリモア


ハローワークの灰皿が撤去。日比谷のシャンテ前、高島忠夫らの手形が足元に配されている広場の灰皿も撤去されている。映画の日だということを忘れ前売りを購入してしまう。バリモア初監督作品「ローラーガールズ・ダイアリーズ」。「二番目のキス」(ファレリー兄弟)で共演したジミー・ファーロンがこの映画にも。「ペーパー・ファミリー」(チャールズ・シャイヤー)で両親と離縁する少女を演じた後、実人生においても離婚した母親と離縁した彼女。華やかな子役時代を経て映画出演とは無縁のアルコールとドラッグに塗れた青春時代を過ごした彼女。今回の映画ではエレン・ペイジを主演にしてテキサスの田舎町の少女が家族の鬱陶しさを超えてローラースケート競技に目覚め、家族と共に成長していく物語を見せる。でもバリモアは最初からそんな「田舎少女の成長譚」には興味がない。虚実共に両親との絶縁を選んだ彼女はやがて自らが母親になってしまうような男女間の恋愛関係を経ずに共に生きてゆけるかを、言い換えれば「子どものまま」いつまでも生きてゆけるかをバリモアは模索してきた、しているような気がしてならない。言い過ぎかもしれないがそれこそ「レスビアン的」とでも言えそうなローラースケートチームの女性同士の親密さや主人公とボーイフレンドとのあっけない破局や「父」や「コーチ」、「恋人」として登場する男性がどこまでも背景に追いやられているように見える遠近感。「夢見る少女」で有り続けるための具体的な戦略として「男性を信用しない」、というか「男性はいらない」とはっきり言ってしまうような「男性不要論」がいよいよ自らの監督作品としてのこの映画に全面展開され始めている。「田舎少女の成長物語」というアメリカ映画のクリシェはレスビアン的女性集団の介入によって親子という関係と男女間の恋愛をそっちのけにして何度も見た事のある風景をそっくりそのまま少女が「夢を見続けられる場所」に仕立て上げられた。

引き続きベンヤミン。「歴史哲学テーゼ」ではなく、それを準備していた時期に書かれたらしい断片から。

いわゆる破局(カタストロフ)の概念のもとに描出される歴史過程は、子どもが手にする万華鏡と同じで、ほんらい、もはや思考する人間を必要としない。万華鏡を廻せば、作られた秩序が交替する。それももっともだ。支配者のもつ諸概念はいつでも、「秩序」のイメージを生みだす鏡だった。この万華鏡を叩きこわさなくてはならない。「セントラル・パーク」

「解放された人類」がどんな状態のなかにいるか、とか、そういった状態はどういう諸条件のもとで出現するか、とか、その出現はいつごろに可能になるか、とかいったことを知りたがる者は、答えのない問いを提出しているのだ。そういう問いは、紫外線の色はどんな色か、と問うこととあまり違わない。「遺稿」

でもって晶文社の著作集で「歴史哲学テーゼ」解説に付けられた野村修のテキストから。

これらの断章や「テーゼ」から知られるように、ベンヤミンの歴史意識は危機の時代の意識であり、その意味でぼくらにも身近なものたらざるをえない。いまも支配階級は、たえまなくいたるところに「非常事態」をつくりだし、かれらの暴力装置を維持しつづけている。アウシュヴィッツと広島の現在であるこの装置の持続を切断するー歴史の連続を断ち切るーためには、ぼくらは、ぼくらのイニシアティブによって(いわば下から)「真の非常事態」をもたらす以外に道をもたない。そのばあい、ぼくらは、ぼくらの思考の構造そのものが、国家の権力構造のヴェクトルに沿って組織されていることを、自覚しなければならぬ。ぼくらは、たとえば「進歩」の、あるいは「改革」の名によって、つまり未来への甘ったれたよりかかりによって、悪しき現在の持続を許容してはいないのか。「ひとつの例外もなく、戦慄をおぼえずには考えられないような由来をもっている」文化財にかこまれ、体制の網の目にからめとられているぼくらの惰性的な思考を、ぼくらは断固として停止し、全面否定を思考の原理としなくてはならない。そういう否定的な態度は非現実的であり、積極的とはいえない、という声はもちろんあるだろうが、しかし否定こそが、現状況ではおそらくあらゆる積極的な目的の設定にさきだつ、まず第一の積極性なのである。

さあ、何から壊そうかな。