「新しい天使」パウル・クレー

 被抑圧者の伝統は、ぼくらがそのなかに生きている「非常事態」が、非常ならぬ通常の状態であることを教える。ぼくらはこれに応じた歴史概念を形成せねばならない。このばあい、真の非常事態を招きよせることが、ぼくらの目前の課題となる。それができれば、ぼくらの反ファシズム闘争の陣地は、強化されるだろう。ファシズムにすくなからずチャンスをあたえているのは、ファシズム対抗者たちが、歴史の規則としての進歩の名において、ファシズムに対抗していることなのだ。ーぼくらが経験しているものごとが20世紀でも「まだ」可能なのか、といったおどろきは、なんら哲学的では<ない>。それは認識の発端となるおどろきではない。もしそれが、そんなおどろきを生みだすような歴史像は支持できぬ、という認識のきっかけとなるのでないならば。

 わたしの翼は飛びたつ用意ができている、
 わたしは帰れれば帰りたい、
 たとえ生涯のあいだ、ここにいようと
 わたしは幸福になれぬだろう。
  ゲルハルト・ショーレム「天使のあいさつ」

「新しい天使」と題されているクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれており、天使はかれが凝視している何ものかから、いまにも遠ざかろうとしているところのように見える。かれの眼は大きく見ひらかれていて、口はひらき、翼は拡げられている。歴史の天使はこのような様子であるに違いない。かれは顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、この強風なのだ。