「忘れられた人々」ルイス・ブニュエルほか


「三億円をつかまえろ」前田 陽一
「喜劇 日本列島震度0」前田 陽一
「涙にさよならを」前田 陽一
「濡れた逢引き」前田 陽一
「起きて転んでまた起きて」前田 陽一
「喜劇 家族同盟」前田 陽一
「バード・シット」ロバート・アルトマン
ゾンビランドルーベン・フライシャー
「忘れられた人々」ルイス・ブニュエル
「幻影は市電に乗って旅をする」ルイス・ブニュエル

「バード・シット」を見る前にしこたま梅サワーを呑んでしまっていたため、記憶が曖昧。武蔵野館での上映が終わってしまったのでどうしたものかとしょんぼりしていたら、バウスでかかるではないか。も一回みよ。70年代アメリカ映画は行き場を失った若者たちが、いまここではない世界をいまここに出現させるために、というか、いまこここそがいまここではない場所になり得ることを示してくれているように思う。人間が鳥ではない、のは気のせいであって、絶対確実の事実ではない。映画がいまここではない場所への「窓」として存在していた勇気リンリンな時代の映画。
「喜劇 日本列島震度0」は平和極まりない東京の下町で足袋職人をしながら、町内会長兼防災対策の長を務めるフランキー堺の映画。「男の子守歌」でも「家族同盟」でもいいけど、偽医者、偽家族を本当の医者、本当の家族に対峙させるのではなく、偽医者を、偽家族をそのまま肯定する映画だったとすると、この映画でも「東京に大地震がやってくる」という本当か嘘かさっぱり分らない占い師の予言をそのまま信じて行動し続けるのがフランキー堺
ブニュエルのメキシコ時代の2本。「忘れられた人々」はカネフスキーの「ぼくら20世紀の子供たち」の続編というか、前篇というか、まあ、戦争機械はいつでもどこでも不屈の精神でもって世界中に湧き続ける、ということを言いきった映画。映画はやっぱり現実の鏡ではなくって、現実から脱線するための入り口、「窓」なんだな。脱線といえば、「幻影は市電に乗って旅をする」。故障したとされ廃車にされてしまう市電を修理して、町中を日常のダイヤの外側で、誰にも知れずに走り続ける一日を、現実の線路を利用して線路からは脱線せずに、日常から、現実から脱線してみる一日を追った映画だった。
いずれにしてもくそったれな世界は相変わらず。特に親の世代の怠惰っぷりには腹が立ちっぱなしの今日この頃。このままおまえたちの想像どおりに死ぬまで現実がもつと思うなよ。はぁ、イライラする。