「シルビアのいる街で」ホセ・ルイス・ゲリン


シルビアのいる街でホセ・ルイス・ゲリン
「スヴェニゴーラ」アレクサンドル・ドブジェンコ
ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の奇妙な冒険」レフ・クレショフ
ハロルドとモードハル・アシュビー
「Love and Other Disasters」アレク・ケシシアン(ブリタニー・マーフィ勝手に追悼)
「欲望のあいまいな対象」ルイス・ブニュエル
女性の髪の毛が全方向から吹いてくる風にゆらめく。後頭部だけが画面に写っている。たったそれだけで高揚する。ストラスブールだろうか、新型都市交通とでもいうのか最新の路面電車が走る町でただひたすらシルビアと思しき名の女性を見つめ、追跡し、結局人違いが分かるだけの映画。カフェでは老若男女が好き勝手におしゃべりしているのが聞こえる。見える。画面には彼ら、彼女らのおしゃべりの声と、町の喧噪、風の吹く音、路面電車が走る音が重なり合う。同時に主人公の見る目の前の男女とその向こうのカフェの窓ガラスに写りこむ人物と、窓ガラスの向こう側にいる人物が重なり合う。たくさんのレイアーといってしまえばそれまでだが、世界はかくも見なければならないもの、聞かなければならないもので溢れかえっていて、誰ひとりとしてその横溢を捉えることなどできない、というシンプルな事実を改めて感じる。見ている、聞いているつもりだったこの世界は見ている、聞いているそばから潜在力を漏れさせ、ほんの少ししか一人の人間にはその力を分け与えてくれない。だけどそれでいいのだ。途中で挿入される「全方向から吹く風」に翻弄される女性の美しい髪の毛のたなびきを見るだけでいいのだ。わたしたちの潜在力は「全方向から吹いてくる風」に翻弄されながらそれぞれの人々にちょっとずつの力を分け与えてくれるのだから。この世界に関して何かが分かったなんて金輪際言うものか。巷に溢れかえる「全方向から吹いてくる風」などないかのように振舞い、翻弄されていないふりをした言説など捨て去ってしまおう。重要なのは耳を澄まし続け、目を見開き続ける徒労を恐れず、その行為のみを持って生き続けることだ。それ以外の時間は死んでいるも等しい。

裕福な家庭に生まれたばかりにそんな徒労を耐えうるはずの主人公の少年が、環境が邪魔をするのか「死んでいる時間」をあたかも「生きている時間」のように感じさせようとするセレブな母親と軍人のおじに抵抗するためにあえて「自殺するふり」を趣味とする「ハロルドとモード」。他人の葬儀に出席することも趣味のこの少年が葬儀が行われる教会で出会った老婆に恋に落ち、寄る辺ない生を老婆と共に生き切るこの映画は、すくなくとも「現実」なんてものはいつだって相手にする必要のない「全方向から吹く風」を「たった一方向から吹いてくる風」として縮減しているだけでしかない身勝手なこの世界に対する耳の澄まし方、目の見開き方でしかない、ということを分らせてくれる。68年を経て、70年代に撮られた多くの有象無象の映画はそのことをはっきりと理解していたのだろうけど、あまりにも現在見る機会が少ないだけだな。ウンコみたいな現代日本映画で集客を確保しておいて、時折、意欲的な特集上映を組み始めた新宿武蔵野館に拍手。そうそう、この映画のおばあちゃんはルース・ゴードン。「ダーティーファイター」のあのおばあさん。いいなあ。(ダーティーファイターは「Every which way but loose」の次に「Any which way you can」という題名で続編が撮られているらしい。うーん、見てみよう。)
現実を馬鹿にするといえばブニュエル最後の作品「欲望のあいまいな対象」も同様。ブルジョアのおっさんが貴娘にやられて翻弄されるのだが、観客には何の説明もなく二人の女優を一人の登場人物にあててテロリストによる爆破でおっさんと女は死ぬ。あっけらかんとしながらも実人生と映画は何も関係なく、「現実の反映」とやらを映画に見出そうとする観客を馬鹿にしきっているこの映画にも拍手。