「グリーン・ゾーン」ポール・グリーングラス


「七転び八起き」に騙されぬよう。どうも起きる必要はないことに気が付く。「何をされてるの?」と尋ねられたら「失業中です」ではなく「疎開中です」と笑顔で応えることにしよう。爽やかに陽光溢れ出した今日はベンヤミンをゆっくり書き写して過ごそう。

「人間の感情のもっとも注目すべき特質のひとつは」とロッツェはいう、「個々人としては多くの我欲があるにもかかわらず、人間全体としては現在が未来にたいして羨望をおぼえないことだ。」よく考えてみるとわかるが、ぼくらがはぐくむ幸福のイメージには、時代の色ーこの時代のなかへぼくらを追いこんだのは、ぼくら自身の生活の過程であるーが、隅から隅までしみついている。ぼくらの羨望をよびさましうる幸福は、ぼくらと語りあう可能性があった人間や、ぼくらに身をゆだねる可能性があった女とともに、ぼくらが呼吸した空気のなかにしかない。いいかえれば、幸福のイメージには、解放(Erlösung)のイメージがかたく結びついている。歴史の対象とされる過去のイメージについても、事情は同じだ。過去という本には時代ごとに新たな索引が附され、索引は過去の解放を指示する。かつての諸世代とぼくらの世代との間にはひそかな約束があり、ぼくらはかれらの期待をになって、この地上に出てきたのだ。ぼくらには、ぼくらに先行したあらゆる世代にひとしく、<かすか>ながらもメシア的な能力が附与されているが、過去はこの能力に期待している。この期待には、なかなかにはこたえられぬ。歴史的唯物論者は、そのことをよく知っている。(「歴史哲学テーゼ」「ヴァルター・ベンヤミン著作集 �」 晶文社

ベンヤミンのいう「星位」(コンステラツィオーン)の概念が気になっていたら、「パサージュ論」で語られているらしい。うーむ。「パサージュ論」がない。翻訳といい本文設計といい注釈といいすべてが気持ちよい晶文社の著作集で読みたいのだけど「パサージュ論」が見当たらない。「一方通行路」と題された10巻目がそれなのか。探しにいこ。「歴史哲学テーゼ」は全文引用していきたいほど身に滲みる。何よりベンヤミンはいつでも優しくて強い。強くて優しいのではなくて優しいの方が先で強いが後。優しいから強い。現在がどこか遠くと繋がっている。遠くで類似している。今こことどこか遠くが星座を形作っている。ぼくらとかつての誰かには「ひそかな約束」がある。我欲はいくらでも裏切ってもいいから遠く彼方で似ている人たちとの約束は破らないようにしなきゃね。
グリーン・ゾーン」はブライアン・ヘルゲランド脚本。「ボーン・アルティメイタム」だか「ボーン・スプレマシー」だかなんだか分からなくなってるけど、マット・デイモンは相変わらず右往左往。合衆国の「テロとの戦い」を論理的に始め、継続するための端緒となったいきさつを「これは始めから陰謀論ですよ」とばかりに淡々と語ってゆく。それはどこか「脚本通りに映像を付けました」というか「脚本を読んで頂ければ分かりますけど映画なので映像も一応撮りました」と思えるほど、あっけらかんとしている。たかだか10年、20年の「現実」にばかり向き合っているようではぼくらに「かすか」ながらも備わっている「メシア的な能力」を「解放」に向けて発揮するにはほど遠いな。