「ぼくら20世紀の子供たち」ヴィタリー・カネフスキー

もしかしたらソビエト連邦は早く時間の流れる合衆国だったのかもしれない。乳児が小箱に据えられたシーンで始まり、そして終るこの映画は、あまりにも早く時間の流れすぎる「ロシア語」しか共通点のない178の民族が生きる広大な土地で、その時間の流れの早さについていけない子供たちが、みずから「ゆっくりと」生を営むための試みを繰り返す様をカメラで捉える。盗みを働き、友人を殺し、酒を呑み、タバコも吸う子供たちが最後に収容される刑務所という場所で彼らはついに「ゆっくりと」した生を手に入れているかのように見える。少年院や刑務所では踊り、歌う。帰るべき家もなく、孤児であるしかない彼ら、彼女らは刑務所で始めて「緩慢」な時間を生きることができる。前作「ひとりで生きる」の最後、胸にタトゥーを入れた少年が画面から逃げ出すように駆け出したその先は刑務所だった。彼、パーヴェル・ナザーロフが生きられる場所は映画の中で右往左往する空間と刑務所だった。背景と登場人物の差がほとんどなくあるのはフレームという枠があるだけのように見えるカネフスキーの映画はそもそも始めから刑務所のようでもある。そしてこの映画で実際に刑務所で生きることになったナザーロフが他の少年、少女らへのインタビューのさなか、唐突に画面に入ってくる際の顔と振る舞いは、どこまでも落ち着いて穏やかなものだった。
いったいどこに焦点を合わせていいのか分からないほど、人間と時間と場所がバラバラに切断され続ける21世紀初頭は「20世紀の子供たち」が大人として生きさせられている。増え続ける自殺者と鬱を見ながら何食わぬ顔をして、21世紀を生き続けるのは「20世紀の子供たち」なのだ。この映画で彼ら、彼女らが見せた笑顔に、今という時間から微笑み返すこと。子供に戻る、回帰するのではなく「そもそも20世紀の子供であることが先」という事実を再確認すること。あまねく全世界が合衆国化しているかに見える今という時間と場所が、ソビエト崩壊後の刑務所そのものに、まるごと撮影中の刑務所になりつつあるのかもしれない。だとするなら、あとは合衆国の崩壊にしっかりと寄り添いながら嬉々として刑務所での生活を過ごし、大きな大きなカメラで撮影されながらも、そのフレームから逃れる機会をそれぞれが「20世紀の子供たち」として伺う時間を養うのだ。カネフスキーがどこかへ消えていってしまったように。カメラの撮影範囲には入らない、どこか見えなくなる場所に向かって消えてゆく準備を始めることにする。

「マイレージ、マイライフ」ジェイソン・ライトマン


本当には信じていないものを信じているぞと他人に示そうとするときに、ひとは極めて危険で卑劣な権力の加担者となる。何も信じていないと他人に示そうとしつつ、自分でも気づかずに深く何かを信じている場合も同じ。(佐々木中ツイッターより)

「フィリップ きみを愛してる」はヨーロッパコープというフランス資本の会社が制作しているらしい。ヨーロッパ代表のユアン・マクレガーアメリカ代表のジム・キャリーにコックサッカーする。うーん、冒頭の緊急治療室のベッドで横たわるジム・キャリーの顔が今まで見た事のないほどグロテスクに青ざめていて(まあ設定上そりゃそうだけど)、気持ち悪いなあと思ったら、そんな気持ち悪いジム・キャリーのモノをくわえるヨーロッパ代表。ひとまずはEUアメリカに乗り込んでいくぞ、ってことだと思うけど、まずはコックサッカーしてしまうってのはなんとも見ていられない。媚び過ぎじゃないか。そして何よりもアメリカ代表のジム・キャリーがこれまではかろうじて「合衆国」ではなくて「アメリカ」の側で演じようともがいていた存在だったとすると、今回の彼は始めて「合衆国」側で存在してしまっていたような気がする。だとするとEUは「合衆国」に媚びようとしているわけで、彼の顔が偽のエイズ患者として青ざめていたように、EU側も青ざめていく運命を共にしていきます、っていう宣言でしかないのではないか。すぐにでもジム・キャリーの顔を「アメリカ」側に取り戻さねばね。

 マイケル・ムーアなら登場人物の一部として焦点を合わせそうなリストラされた人々が「マイレージ、マイライフ」ではどこかCNNドキュメントでちらっとインタビューされる人たち程度にしか扱われない。いまアメリカ映画で物語を駆動できるのはこの映画でジョージ・クルーニーが演じている役のように雇用する側でもなく雇用される側でもなく「雇用をはずす人」なんだろう。あるときは親身にあるときはドライにアメリカ合衆国全土を飛行機で移動し続け、各地の「雇用をはずしてゆく」。リストラされる人々に面談の最後に手渡しする資料にはこれからの全てが書かれているらしいが、まあ、何も書いてないんでしょう。「雇用をはずす側」はかろうじて物語を動かしていけるけれど、「雇用をはずされる側」は白紙状態。だから「雇用から引きはがされる側」は各々数秒のショットでちょっとのセリフがあるだけ。口々に「家族のため」、「妻と子供が全て」だなんて言わせるけど、それはあくまでも合衆国側からの紋切り型なだけ。アメリカを揺さぶり続けているのは「引きはがされる側」なのだから、この映画のすぐ後にアメリカ側からの映画が撮られないといけない。ジョージ・クルーニーが空港で目にするポスターには「機長への忠誠に感謝します」とかなんとか書かれた航空会社の広告があった。確かに彼は飛行機(合衆国)を操縦する機長にどこまでも忠実に搭乗(登場)し続ける。彼の生はどこまでいっても飛行機(合衆国)の側にへばりついたまま、少しでも離れる(インターネット経由での解雇面談の実験)と、生は停滞する。
妹と妹のフィアンセの写真を各地の名所でデジカメにおさめて、合衆国の地図にその写真を貼付けるシーンがある。合衆国はほぼ彼女たちの写真で埋め尽くされている。ここにしかいないのにどこにでも存在できる合衆国。だとするとアメリカ側からの返答はこうだ。ここにすらいれない(雇用をはがされる)けれど、どこにでも存在できるアメリカ。合衆国の地図では見る事のできない場所に投げ出され続ける人々がそれでも生を整えて物語を語り直す場所。そして飛行機(合衆国)を飛行機(アメリカ)としてそくりそのままハイジャック(detournement)すること。

カラー・パープルとか

空回りの積み重ねが社会を動かすのではないか。イーストウッドが抽出した「それ以上の力」は日常と非日常の区別なしに「そこにある」のは間違いなさそうだ。「何がしたいのか」という自らへの問いはあまりにもバカバカしい。また、「これこれこうせねばならない」という当為のかたちをとった命令が自らに下されるのもホントのところ信じてない。できれば「これこれこうせざるを得ない」というところにいたいのだけれども。そこはもう、なかなかどうして。
起きている時間と空間の抽象化は避けられない。だからせめて意識だけでも具体的な事物に具体的に関わろうとはする。こちらはこちらで具体的な歩みは一歩目から抽象化への道に繋がってしまうわけで、まあ、それでも行くしかないけれど、尻込みしてばかり。
リハビリが必要なのかもしれないけど、そんな暇はないし、そもそもリハビリ自体が怪しいではないか。自由の効かなくなった思考や志向や視線や身体、まあなんでもいいけど、それこそ冷蔵庫の残り物でおいしいもの作ってしまうような動き方を今すぐ始めないとね。
「NYPD15分署」(ジェイムズ・フォーリー)、「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」(マイケル・チミノ)とチャイニーズマフィア二本立てで見てから、見ずに過ごしてしまった「カラー・パープル」(スティーブン・スピルバーグ)をようやく。「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」のミッキー・ロークになりたいな。

「インビクタス」クリント・イーストウッド


グラン・トリノ」と「チェンジリング」を見てしまったあとだと地味な映画に見える。1度目はさらっと見て、もう1回。
イーストウッドが画面の中から消えてしまうというのはこういうことだったのか。
誰も主人公がいない映画。ラグビーに関しては素人でしかないマンデラがチームに協会に口を出して、ワールドカップで優勝してしまう。でもマンデラが主人公という感じもしない。スプリングボクスの主将、フランソワ・ピナール演じるマット・デイモンの方が主人公かといえばそうでもなさそうだし。とにかくすべてはさらっとした感触で画面が流れてゆく。
白人支配の象徴ともなっていた緑とゴールドのユニフォームを変えようとする黒人側からの動きを説得してなんとか多数決で抑えてみたり、チームには黒人の子供たちと練習して白人と黒人の融和というPR活動に参加させたり、いやがるチームメイトに新しい国家の歌詞を配ってみたりと、まあマンデラとピナールの働きかけはことごとく黒人の側からも白人の側からも面倒くさがられるばかり。けれども優勝してしまう。
この映画のキモはマンデラがピナールを大統領執務室に呼び寄せた際に主将に問いかけられる「持っている力以上の力を出すためにどうすればよいのか」という一言にある。
「持っている力以上の力」。「持っている力」と「それ以上の力」は別々のものとしてある。「持っている力」がそれぞれ組み合わさって世界を動かそうとするのではなく「持っている力」から「それ以上の力」を切り離して「それ以上の力」を組み合わせていくこと。このことがマンデラが成し遂げてしまったことだ。

「バレンタインデー」ゲイリー・マーシャル


ゲイリー・マーシャルより妹、ペニー・マーシャルの新作はまだやらないのかなあと待ちわびる。近年のアメリカ映画でお金をかけてそうなものの傾向のひとつとして主人公が誰なのかさっぱり分からないまま映画が終るということがあるけれど、この映画もまさにその傾向をたっぷり抱えている。ジェシカ・アルバアシュトン・カッチャーアン・ハサウェイジュリア・ロバーツジェイミー・フォックスなどなど有名俳優たちがぎょうさん出演している。でも誰の物語か分からない。ジェシカ・アルバアシュトン・カッチャーの二人が中心人物のようにも思えるけれど、果たしてどうなのか。登場人物のそれぞれがそれぞれの悩みを抱えながら恋愛に勤しむ。だれけども各々の組み合わせ同士には繋がりがほとんどない。各シーンはツーショットで撮られるのがほとんどの流れに対して、かろうじてそれぞれの空間を繋ぐ役割を担わされたスポーツキャスター演じるジェイミー・フォックスという存在がいるにはいる。
バレンタインデーを迎えたLAの朝。生花市場にバレンタインデーに相応しいネタ探しに取材に行くジェイミー・フォックスアシュトン・カッチャーに話を聞いてテレビカメラで写したり、引退を表明するアメフト選手のPRを担当している女性と知り合ったりするところはそれぞれのツーショットの空間を繋げているようにも見えるけど、結局最後までバラバラの二人同士の物語が並行して語られている。ジュリア・ロバーツに至ってはイラクからの帰りだろうか、女性大尉として帰国中の機内でのシーンがほとんどで。最後のシーンで誰の母親かが判明するが、気が付けば息子の部屋で抱擁しているわけで、とにもかくにも各ツーショットはバラバラに切り離されたままだ。
切れ切れのエピソードに対して観客は切れ切れの感情移入をしていけばそれでいい映画なのかもしれない。だけどなあ。ほとんど何もないんだけど、こうして想起し始めると、この映画で起きてることって、アメリカ人は相当焦ってるっていうことがバレバレなんじゃないかなあ。LAという大都会で住む人々はPR会社の社員や花屋や派兵帰りの大尉やスポーツキャスター、サラリーマンといった働く人のバレンタインのエピソード(人生)をバラバラにしか提示できない。要するにバレンタインデーだけがもしかしたら、登場人物それぞれの立場の誰か一人には感情移入ができそうだからしておこうと。でもバレンタインデーを過ぎてしまえば、観客にはうまく感情移入ができないほど、各々のエピソード(人生)はあまりにもバラバラに異なりすぎている、と。
誰もが同じものを見ているはず、という前提(そもそもこの前提自体が最も怪しいわけですが)が明確に崩れさってしまっているがために、誰もが同じものを見ているはずだ、という焦りを慰めてくれるものとしてこの映画とバレンタインデーはあるように思えてくる。
でも確認しなきゃいけない。誰もが同じものを見ているはず、というかすかな期待を持ちつつも、全然違うものを観客それぞれが見てしまう、というのが映画だったわけで、だからこそ、映画体験はそれぞれにとって貧しくもあり豊かでもあり続けてきたのだけど、こうなると、「誰もが同じもの見なきゃ」っていう焦りばかりが前面に押し出されていて、もう別に映画じゃなくていいじゃん、って気がしてくる。
誰もが同じものを見ているはずはない、というやっぱり当たり前のことを手放してしまったら、あとはもう、専制政治の到来を待つしかないのではないか。
アン・ハサウェイは「レイチェルの結婚」以来、やっぱりアバズレ女な感じが実はぴったり嵌るんだなあ。

「50歳の恋愛白書」レベッカ・ミラー


「バレンタインデイ」(ゲイリー・マーシャル)を見ると、やっぱり誰が主人公なんだか分からない映画のひとつとしてあったような気がけど、The Private Lives of Peppa Leeという原題が示す通り、この映画はロビン・ライト・ペン演じるピッパ・リーがしっかり主人公の映画。ドラッグの力を借りて、郊外の幸せな家族のパワフルママを演じ切った母親に対して、ドラッグに手を出すものの、アラン・アーキンとの出会いによって立ち直り、幸福な家庭の母親を薬なしで演じきるかに見えたが、どうやらそうもいかないらしい。
母親たちの世代の家庭が見せかけのもので、覚醒剤の力なくしては見かけを保てなかったように、「幸せな家庭」なんてものはいつでも見せかけなんだろう。夫であるアラン・アーキンが高齢のために周りには死を穏やかに迎えようとして老人ばかりが集まる区画に引っ越してきたまではいいけど、ロビン・ライト・ペン夢遊病者のように、自らの意志にはない行為を繰り返し始める。「幸せな家庭」こそが必要ないことは明らかなんだけど、彼女の場合は、薬ではなく「現実」に対してトリップすることによって最後にはキアヌ・リーブスと旅だってしまうかのように見えた。現実に対してトリップするって変ないい方だし、バッドトリップでなければ、それはそれで「現実に適して」生きていくことに繋がりそうだけど、どうなんだろう。どちらかというと現実に適応して生きてる人たちはトリップ自体を避けているというか、副作用まんさいの現実に対して、我慢することによって適応しているのではないかしら。
ピッパの若い時分にはドラッグを利用したトリップによって社会を変革しようとしていた人たちがヒッピーとか云われてたくさんいたけど、今やトリップするには目の前の現実だけで十分な気がする。そこに多いなる希望を妄想してしまうのは楽天的すぎるんだろうけど、それでも現実にキレイに適応することって、一生ピッパの母親みたいにドラッグに頼ることになるか、現実の副作用による身体の失調を自らの我慢と努力が足りないせいだとか思い続けて、「健康(現実)」への回復を模索し続けることのいずれかだけしかないような気がする。
ありとあらゆる時間と空間が「パブリック」なものに浸食されつつあるなか、ピッパ・リーの「プライベート」は、そんなパブリック圧倒的優位の現実をそのまま母親の使ったドラッグのように利用して、トリップ(旅)に出る。車で迎えにくるキアヌ・リーブスの元へ行く姿は、「シーズ・ソー・ラブリー」で娘たちと夫を残してショーン・ペンの元に向かう姿と重なりつつも、再び幸せに向かって車が走り出していたように見える後者に対して、今回の映画のそれは「消え去る」ためだけの発進のように思えた。「パブリック」の大いなる浸食を前に反撃に出た「プライベート」は「パブリック」に見つからないように見えなくなる。逃げろ。

ツォホアピン

前田陽一「神様がくれた赤ん坊」と「インビクタス」(イーストウッド)を見る。
水泳と粉料理も。
餃子(北京ではギョーザは水餃子)と葱入りのピン、ツォホアピンを作ってみる。
水餃子は強力粉だけど麺より水が多めで捏ねるのは比較的簡単だった。ただひとつひとつ皮を成形していく際に薄くし過ぎたのか、包み終わった後、さあ茹でるかという段階で、皮が破ける。まあうまかったからいいや。捏ねるの簡単だけど、豚バラ肉をみじん切りにする作業は結構大変だなあ。
ツォホアピン。ツォホアはネギのことらしい。薄力粉をぬるま湯で捏ねる。こちらも麺よりは楽な作業。生地に油を塗って、ネギを敷いてくるくる巻いていく。半分に切って、両端閉じて、縦に持ち替えて90度捻ってつぶす。この捻ってつぶす作業が楽しい。捻ってつぶすことで焼いた後に、「層」がいくつもできている。その層に好みの具材を詰めて食べるのもいいらしいけど、今回はネギが予め入っているということでそのまま。味は予想よりさっぱりしているけど、やっぱりネギだけじゃ物足りないなあ。