「マイレージ、マイライフ」ジェイソン・ライトマン


本当には信じていないものを信じているぞと他人に示そうとするときに、ひとは極めて危険で卑劣な権力の加担者となる。何も信じていないと他人に示そうとしつつ、自分でも気づかずに深く何かを信じている場合も同じ。(佐々木中ツイッターより)

「フィリップ きみを愛してる」はヨーロッパコープというフランス資本の会社が制作しているらしい。ヨーロッパ代表のユアン・マクレガーアメリカ代表のジム・キャリーにコックサッカーする。うーん、冒頭の緊急治療室のベッドで横たわるジム・キャリーの顔が今まで見た事のないほどグロテスクに青ざめていて(まあ設定上そりゃそうだけど)、気持ち悪いなあと思ったら、そんな気持ち悪いジム・キャリーのモノをくわえるヨーロッパ代表。ひとまずはEUアメリカに乗り込んでいくぞ、ってことだと思うけど、まずはコックサッカーしてしまうってのはなんとも見ていられない。媚び過ぎじゃないか。そして何よりもアメリカ代表のジム・キャリーがこれまではかろうじて「合衆国」ではなくて「アメリカ」の側で演じようともがいていた存在だったとすると、今回の彼は始めて「合衆国」側で存在してしまっていたような気がする。だとするとEUは「合衆国」に媚びようとしているわけで、彼の顔が偽のエイズ患者として青ざめていたように、EU側も青ざめていく運命を共にしていきます、っていう宣言でしかないのではないか。すぐにでもジム・キャリーの顔を「アメリカ」側に取り戻さねばね。

 マイケル・ムーアなら登場人物の一部として焦点を合わせそうなリストラされた人々が「マイレージ、マイライフ」ではどこかCNNドキュメントでちらっとインタビューされる人たち程度にしか扱われない。いまアメリカ映画で物語を駆動できるのはこの映画でジョージ・クルーニーが演じている役のように雇用する側でもなく雇用される側でもなく「雇用をはずす人」なんだろう。あるときは親身にあるときはドライにアメリカ合衆国全土を飛行機で移動し続け、各地の「雇用をはずしてゆく」。リストラされる人々に面談の最後に手渡しする資料にはこれからの全てが書かれているらしいが、まあ、何も書いてないんでしょう。「雇用をはずす側」はかろうじて物語を動かしていけるけれど、「雇用をはずされる側」は白紙状態。だから「雇用から引きはがされる側」は各々数秒のショットでちょっとのセリフがあるだけ。口々に「家族のため」、「妻と子供が全て」だなんて言わせるけど、それはあくまでも合衆国側からの紋切り型なだけ。アメリカを揺さぶり続けているのは「引きはがされる側」なのだから、この映画のすぐ後にアメリカ側からの映画が撮られないといけない。ジョージ・クルーニーが空港で目にするポスターには「機長への忠誠に感謝します」とかなんとか書かれた航空会社の広告があった。確かに彼は飛行機(合衆国)を操縦する機長にどこまでも忠実に搭乗(登場)し続ける。彼の生はどこまでいっても飛行機(合衆国)の側にへばりついたまま、少しでも離れる(インターネット経由での解雇面談の実験)と、生は停滞する。
妹と妹のフィアンセの写真を各地の名所でデジカメにおさめて、合衆国の地図にその写真を貼付けるシーンがある。合衆国はほぼ彼女たちの写真で埋め尽くされている。ここにしかいないのにどこにでも存在できる合衆国。だとするとアメリカ側からの返答はこうだ。ここにすらいれない(雇用をはがされる)けれど、どこにでも存在できるアメリカ。合衆国の地図では見る事のできない場所に投げ出され続ける人々がそれでも生を整えて物語を語り直す場所。そして飛行機(合衆国)を飛行機(アメリカ)としてそくりそのままハイジャック(detournement)すること。