「50歳の恋愛白書」レベッカ・ミラー


「バレンタインデイ」(ゲイリー・マーシャル)を見ると、やっぱり誰が主人公なんだか分からない映画のひとつとしてあったような気がけど、The Private Lives of Peppa Leeという原題が示す通り、この映画はロビン・ライト・ペン演じるピッパ・リーがしっかり主人公の映画。ドラッグの力を借りて、郊外の幸せな家族のパワフルママを演じ切った母親に対して、ドラッグに手を出すものの、アラン・アーキンとの出会いによって立ち直り、幸福な家庭の母親を薬なしで演じきるかに見えたが、どうやらそうもいかないらしい。
母親たちの世代の家庭が見せかけのもので、覚醒剤の力なくしては見かけを保てなかったように、「幸せな家庭」なんてものはいつでも見せかけなんだろう。夫であるアラン・アーキンが高齢のために周りには死を穏やかに迎えようとして老人ばかりが集まる区画に引っ越してきたまではいいけど、ロビン・ライト・ペン夢遊病者のように、自らの意志にはない行為を繰り返し始める。「幸せな家庭」こそが必要ないことは明らかなんだけど、彼女の場合は、薬ではなく「現実」に対してトリップすることによって最後にはキアヌ・リーブスと旅だってしまうかのように見えた。現実に対してトリップするって変ないい方だし、バッドトリップでなければ、それはそれで「現実に適して」生きていくことに繋がりそうだけど、どうなんだろう。どちらかというと現実に適応して生きてる人たちはトリップ自体を避けているというか、副作用まんさいの現実に対して、我慢することによって適応しているのではないかしら。
ピッパの若い時分にはドラッグを利用したトリップによって社会を変革しようとしていた人たちがヒッピーとか云われてたくさんいたけど、今やトリップするには目の前の現実だけで十分な気がする。そこに多いなる希望を妄想してしまうのは楽天的すぎるんだろうけど、それでも現実にキレイに適応することって、一生ピッパの母親みたいにドラッグに頼ることになるか、現実の副作用による身体の失調を自らの我慢と努力が足りないせいだとか思い続けて、「健康(現実)」への回復を模索し続けることのいずれかだけしかないような気がする。
ありとあらゆる時間と空間が「パブリック」なものに浸食されつつあるなか、ピッパ・リーの「プライベート」は、そんなパブリック圧倒的優位の現実をそのまま母親の使ったドラッグのように利用して、トリップ(旅)に出る。車で迎えにくるキアヌ・リーブスの元へ行く姿は、「シーズ・ソー・ラブリー」で娘たちと夫を残してショーン・ペンの元に向かう姿と重なりつつも、再び幸せに向かって車が走り出していたように見える後者に対して、今回の映画のそれは「消え去る」ためだけの発進のように思えた。「パブリック」の大いなる浸食を前に反撃に出た「プライベート」は「パブリック」に見つからないように見えなくなる。逃げろ。