ブランショふたつ

68年5月は、容認されたあるいは期待された社会的諸形態を根底から揺るがせる祝祭のように、不意に訪れた幸福な出会いの中で、爆発的なコミュニケーションが、言いかえれば各人に階級や年齢、性や文化の相違をこえて、初対面の人と彼らがまさしく見なれた-未知の人であるがゆえにすでに仲のいい友人のようにして付き合うことができるような、そんな開域が、企ても謀議もなしに発現しうる(発現の通常の諸形態をはるかにこえて発現する)のだということをはっきりと示して見せた。(「来るべき共同体」)

何かについて書く、ということはいずれにせよ適切さを欠いている。しかし、人が何かについて書くこと-銘文、注釈、分析、讃辞、弾劾-をもはや断じて許すまいとする(とりわけ)そのためにこそある出来事についてなお書くということ、それはこの出来事をあらかじめ歪曲し、つねにすでに取り逃されたものとしてしまうことにほかならない。それゆえわれわれは、<5月>に起こったこと起こらなかったことについて書くということは決してすまい。敬意からでもなく、出来事に輪郭を与えることでそれを限定してしまうまいという配慮からでもなく。われわれは、この拒否が、エクリチュールとの断絶の決意とが結びつくひとつの地点であることを認めている。その二つは切迫したつねに予測不可能なものなのだ。(「ビラ・ステッカー・パンフレット」)

周囲は畑だらけの地域に住んでいると春には春の匂いがあることが分かる。歩いていると、自転車に乗ると、小走りすると、それぞれ少しずつ異なる匂いがしているように感じる。畑の真ん中に礼儀正しく咲くチューリップは花弁の外側を橙に内側を黄色にしながらお互いの色の区別がついていないかのようにみなで南側を向いている。