「死刑執行人もまた死す」フリッツ・ラング

アメリカはテキサス州で街で唯一の書店が経営効率の名の元に撤退して住民たちが反対しているという記事をwebで読む。どうやら元々移民が多い地区で、識字率は全米でも相対的に低い場所らしい。その書店がなくなると、車でぐんぐん走らないとたどり着けない場所にしか「本」を買うための場所が、機会がなくなり、識字率は向上していかないから、とかそんな理由からの反対なのか。
でも待てよ。うーん。そもそも「識字率」を上げて上げて上げまくってイマの社会の仕組みがまわってるとしたら、識字率を下げるって、仕組みにとっては脅威じゃないのか。識字率ってコトバもそして統計の取り方もきっとはなはだ怪しいのだろうけど、ここはひとつ比喩的に「識字率を下げる」ってどうだろうか。というか「下げる」って否定辞に止まらず、「新しい字を読める」ように「新しい字を作り出す」ってことに繋げられないかね。まあ、無理かもしれませんが、うーん、せめて「新しい方言」とか「新しい訛り」とか「新しいくせ」とか「新しい振る舞い」とか「新しいラジオ体操」とか(まああ最後は冗談ですけど)、なんか「お上から勉強しろって云われてる文字を読める人間を一人でも増やさなきゃ」っていう脅迫観念はもう、それだけで、「奴隷の思想」なんじゃないでしょうか。
書店がつぶれていくのを嘆くんじゃなくて、それこそ「新しい書店」を作ればいいのでは。その「新しい書店」にはさっき妄想した「新しい方言」を話す人たちがいつのまにか集っていて、「新しい人生」が始まっているとか。「新しい」、「新しい」ってうるさいね。終わり。
久しぶりにアテネへ。アメリカ時代のフリッツ・ラング
マン・ハント」(1941)と「死刑執行人もまた死す」(1943)。死刑執行人の方はどうやらベルトルト・ブレヒトが脚本で参加している。ラングと同じくアメリカに亡命している時期に、またまた同じく亡命中のユダヤ人、アイスラーって人と3人で協力しあいながら作られた作品。ナチスによる占領下のプラハで実際に起こった高官の暗殺事件が元にされている。
極悪非道なゲシュタポプラハの地下活動家たちの対立。だけじゃなくて、この映画の肝は、プラハの市民全体がまるで「ミュージカル映画」みたいに地下活動家たちをサポートして、集まったり散らばったりする様子じゃないですかねえ。でもその「ミュージカル映画」には監督とかディレクターとか指揮者は存在しなくてそれこそ「勝手にミュージカル」になっていくと。ナチス政権下のドイツ、ドイツ市民たちが意識的にも無意識的にも「最悪のミュージカル映画」として生活してしまっていたのは、ヒトラーやらゲッペルスやら、まあ監督がいたからで、それに対抗するためには「地下活動家」ではなく「監督なきミュージカル映画」が必要だったのかもしれない。いやもちろん「活動家」たちは必要といえば必要なのかもしれないけれど、彼らが「監督」として振る舞っている限り(そしてそれは今の今まで続いているような気もするが)、ナチスが上映する「ミュージカル映画」には勝てない。そんな妙ちくりんな確信がラングとブレヒトにはあったのかしら。
いや、だから、この映画を「サスペンス映画」とかでジャンル分けした上で評価されているのは重々承知の上で、「ミュージカル映画のように街中を歩く市民」たちをわざと引き抜いてみると、なかなかどうして、今でも再利用できそうなヒントがあるような気がしたので。
ただ今となっては「ヒトラー」のような「ナチズム」のような明らかに自分たち殺してくる存在が見えないだけに、ということは多分、現在の認知資本主義下においては「監督なきミュージカル映画」をやつらの側で利用されてしまっているところが面倒なところ。であれば「もう一度」監督なきミュージカルを、今度はプラハ市民限定とかではなく、「普通の人たち」全員が一斉に演技を始め(よーい、アクション!)、監督のツラしてヤツらがNGを出してきたら、素早く解散して、次の撮影場所に自転車で走る、そして次のロケ場所でも勝手に演技を始め(よーい、アクション!)。。。というのを繰り返すこと。そんな妄想をこの映画から見てしまうのは果たしてどうなのか。