「ラブリーボーン」ピーター・ジャクソン

税務署のおっさんの態度の悪さに呆れつつ、寒風吹きすさぶなかバウスへ。っていうか減価償却っていう考え方というか仕組みというか概念というか、かなり怪しくないですか。税徴収がパブリックの顔したショーバイのひとつだとすれば、悪徳商法っぽくないですか。ぜんぜん違うのかなあ。気を取り直して。

ラブリーボーン」(ピーター・ジャクソン)。「ダイアナの選択」(ヴァディム・パールマン)が、殺されてしまう少女の、まさに殺される前段階を引き延ばして、途中とちゅうで、死んでしまうにも関わらず、未来の自分の姿が想像されるシーンが挿入されて、いずれにしても「主人公」(エヴァン・レイチェル・ウッド)に降り掛かる惨劇と妄想の映画だったとしたら、「ラブリーボーン」にはどうも「主人公」が誰なのか曖昧に感じられる。
シアーシャ・ローナン演じるスーザン・サーモンが主人公なんだろうけど、うーむ。エヴァン・レイチェル・ウッドの妄想がどこまでもこの世の生にへばりついたものだったので、フラッシュ・フォーワード(?)とか呼ばれもしたその手法はさておき、彼女が主人公として成立してはいた。だけど、この映画は、マーク・ウォールバーグレイチェル・ワイズ夫婦とシアーシャの関係(特に母親との関係が)が希薄だったり、途中から登場するスーザン・サランドンおばあちゃんが何しに家に来たのか分からないくらいはじけてるし、姉の死後の妹のハラハラドキドキする犯人の家での行動は、妹を主人公にして別の映画が始まりそうだし、犯人はといえば逃亡に成功したかに見えて物語とは全然別のところで奇妙な死に方をしたりして、そう、肝心のシアーシャの居場所がほとんど残されていないのだ。
彼女の死後、慌てふためく家族がそれでも生きているあいだ、彼女は何をしていたかというと、死後の世界(もうすぐ天国の場所?)からこの世のみんなを見守ることだ。そしてこの映画は死後の世界からの彼女の声をナレーションとしている。だからどちらかというと誰が主人公か分からない映画の解説を、かろうじて「私が主人公なんです」と説得しかかってくるように彼女のナレーションだけが、声だけが物語をドライブさせてゆく。

話は戻って、「ダイアナの選択」が興味深かったのは、死んでしまう少女が、死ぬ前にひたすら死ななかった場合の自らの生を妄想し続けて、その妄想を観客に見せているところだった。それに対して、シアーシャは映画の序盤ですぐに死んでしまい、家族や友人たちの世界を断片的に見守るというひどく中途半端な、バラバラな要素がバラバラなまま放り投げられている印象を強く受ける。シアーシャは死後の世界という特権的な場所に早々に行ってしまい、あとはざわざわしている家族の様子を「ひとごと」みたいに回想してゆくばかりだ。あ、でもこうして封切館でアメリカ映画を見続けている自分自身も、シアーシャが生きるものたちを見つめるようなどこか冷めた視線を映画に向けているのかもしれない。そして、見たそばから忘れていくことを繰り返しているだけのような。

というか、映画の作り手たちもどこか物語を制御できていない気がしてならない。もう誰も主人公なんていないし、物語が破綻していてもいい、ただ「マーク・ウォールバーグ」出演、とか「スーザン・サランドンがいい脇固めてます」とか、そういった要素がまず先にあって、後はもう。。。

違うと思うけど、とにもかくにも、映画を見た感覚ではない、変な徒労感が襲ってきた。主人公なんていらないけど。。。