「オルエットの方へ」ジャック・ロジエ

気が付けばカネがなく、カネフスキーのせっかくのアンコール上映にも行けず。水泳は調子がいいものの、時間帯がまずくおばさまたちの団体レッスンに巻き込まれ、思うように泳げず。ま、いいや。
身内の勤務先でバカバカしい事柄が起き、テレビ、ネット、新聞のニュースに続々と載る。いったいどれが正しい情報か定かではないが、どうも修学旅行を舞台にした「長時間へたれ演劇」のような印象を持つ。十数時間という間、なぜ教師の怒りは持続するのか、しかもその間なぜ、観客として設定された当事者は出来の悪い演劇を黙って見続けたのか。なぞは深まるばかりだけど、生徒たちにとっては、修学旅行という舞台設定の惨劇を見させられたとこになる。観客は目の前のフィクションをただぼーっと見ているだけの存在で甘んじていていいのだろうか。

なんとか工面した小銭でユーロスペースへ。続けて見ればいいのにカネのために「オルエットの方へ」(ジャック・ロジエ)のみ。160分の長い上映時間。1969年の作品。パリで働く女の子がバカンスに訪れた大西洋側の町にある別荘の周辺で過ごす時間を追う。ただひたすら些細なことにも笑い転げ、無為なのか有為なのか、はたまたそのあわいなのか、笑ったり食べたり眠ったり走ったりするだけの時間が過ぎてゆく様子をカメラは追い続ける。バカンスの1ヶ月とそれ以外の11ヶ月という時間は圧倒的に11ヶ月の方が長いけれど、バカンスの1ヶ月間こそが生きる時間なのだという熱を帯びた焦燥をもって。
69年といえば68年の次の年で、当たり前だけど、学生運動の熱狂もまだ冷めてない時期にこんなオキラク映画が、とふと思ったものの、バカンスからパリの日常に戻るあっけなさというか、残酷さみたいなものは運動に参加していた当時の若者たち誰しもが予感していたことかもしれなくて、だとするとバカンス以外の残り11ヶ月との付き合い方を変えるヒントがあるかもしれないという気もしてくる。
パリに帰る際に乗車するメトロの寒々した印象や風景という風景が決して写されることのないパリのシーンは「もうパリには戻らない」というバカンス以後の身の処し方をそれとなく示しているような感覚もわき起こって来たりこなかったりして、まあ、海と女の子があればこうも簡単に日常から脱線できてしまうのだなあと改めて感じ入ったのだった。