きみがぼくを見つけた日 ロベルト・シュベンケ

今年のテーマとはいっても、あと2ヶ月しか残っていないけれど、公私混同なるものの実践によって、サラリーマンの賃労働としての「公」と、その反動、反感、愚痴、偽の空き時間としての「私」との二項対立そのものをなしくずしにすることができるのではないか、と誓いにもならない誓いを、井の頭公園を独り自転車で走りながらしてみた。
レンタルサーバを借りるために取り敢えず1年分を振込に銀行へ。銀行へ行く前に吉祥寺パルコの前に自転車を止めたのだけど、腹立つことが。いろんなことに腹立つが、どうやら違法駐輪(?)、迷惑駐輪が武蔵野市として問題!になっているらしく、パルコの前の通りで公共放送として「駐輪は駐輪場へ」、「あなたの駐輪に迷惑している人がいます」、「ひとりひとりのマナーを確立しましょう」とかなんとか女の人に言わせている。そんなの知るか。吉祥寺という街に人と自転車と自動車が増えてきて、不動産の価値が上がって(順序はどちら?)、ますます人と自転車と自動車が増えて、アクセスする人間が飽和状態になっているのにも関わらず、駐輪のマナーだと。そもそものファックな都市計画がいけないのでは。「町づくり」なんていってそれを仕事としている「公」の人間たちが自分たちの杜撰な町づくりのほころびを認めたくないためだけじゃないか。三越が、あ、その前の近鉄がなくなり、大手家電量販店に替わり、ついには伊勢丹もなくなろうとしているにも関わらず、相変わらず人が集まってきているこの吉祥寺という町は、少し気持ちが悪い。ここで、都市と郊外の二項対立にそれぞれ「公」と「私」を当てはめてみると分かりやすいかも。外の世界、路上においても、都市と郊外の対立、差異は曖昧になっているのだ。だから町づくりをこれまでのように「公」の側から考え続けていると、すべては自治体の思い通りに運ばなくなるのだろう。また、「マーケティング」と称する囲い込みも、この町を「公」として考えれば伊勢丹が立ち行かなくなるようにすぐにうまくいかなくなるだろう。逆に「私」の空間の延長としてのみ町を捉える「マーケティング」も、同様に短期的な成果しかあげられないでしょう。
始めは、吉祥寺の悪口を書こうと思ったけど、どうも違ってるのかな。「公」と「私」を分けて考えている人にとって、一見活気があるように見えるけど、実際は、経済活動の流動性が高すぎるだけで、平日、休日問わず、家にいるのか外にいるのか分からない、親密なのか疎外されているのか分からない空間が狭い地域に広がっているだけで、多くの人たちを捕獲することはもはやできなくなっているのでは。とすると、「都市」と「郊外」の差異が曖昧になりつつある吉祥寺という町のあり方を、まずは自分が真似てみることなのかしらん。違うか。きっと違うな。
そんなこんなで、バウスシアターへ。「きみがぼくを見つけた日」(ロベルト・シュベンケ)。エリック・バナセイン・カミュに似ていることに気が付く。どの時代にも瞬時にタイムトラベルすることができる、してしまう身体を持つ男と、その男に恋し、結婚までする物語。レイチェル・マクアダムスが演じる彼女が妊娠し、お腹に宿った子どもも時空を超えてどこかへ行ってしまうため、何度身ごもっても流産してしまう。ある日、彼女への負担をこれ以上かけまいとして、パイプカットしたりして悩んじゃうのは、「ブーリン家の姉妹」から続いていたのか。あ、あっちは逆か。それにしても、エリック・バナが過去と未来を行ったり来たりし過ぎで、現在という時間の実感が希薄なまま、また主人公の男女以外の人間の存在感も薄いまま、始まってもいないし終り方もよく分からないまま映画は続く。インターネットの世界ってこういう「気散じ」の時間がのっぺり続いているものだとしたら、その点にのみこの映画の現在性みたいなものが見つけられるのもしれないけれど、まあずいぶんとお気楽な映画であった。
「私の中のあなた」といい「きみがぼくを見つけた日」といい、「私」やら「あなた」やら「ぼく」やら「きみ」ばかりが邦題に入り込んできているのは、どこまでも映画を親密なものにしようとしている「マーケティング」の仕業なのかもしれないけど、もういい加減止めて欲しい。