「アンナと過ごした4日間」イエジ・スコリモフスキ

私たちが生きている時間はまっすぐなのかじぐざぐなのかくるくる回りながらなのかは問わず、何かに向かって「進んでいる」ような気がする。でないと困る。今日は昨日の影響下にあり、明日は今日を下敷きとして繋がっている、ような気がする。
病院の火葬場で勤務し、病弱な母親を看病のすえ看取り、愛する女が眠っているときにのみ、彼女と時間と空間を共にするこの映画の主人公は、そんな「繋がっていたはずの時間」の外側で生きることを強いられているように見える。職場では既に死んでしまった人間の時間と付き合うことで、母親への毎日が正確な反復でしかない看病の時間と付き合うことで、またその死後、完全な孤児としての時間と付き合うことで、そして愛する女の生きているのか死んでいるのか定かでないような眠っている(ただそこに身体が据えてある)という時間と付き合うことで、「繋がっていたはずの時間」から外れている。
いずれもこのスペクタクルの社会ではつまはじきにされスペクタクルにさえなれないような、スペクタクルにさえ無視されているような時間が主人公の周りにこびりついている。
彼がそんな時間の外側の時間にはみ出した途端、アンナの眠る部屋で最後に過ごした日、アンナが男が訪れる前にそこで行われていた誕生日パーティーの酒を、男は飲み過ぎて眠ってしまい、気が付くと朝、アンナがついに起き出だしてしまい、ベッドの下で隠れながらも起きているアンナと同じ時間を共有してしまう後には、警察に囚われ、裁判にかけられ、牢獄に入れられてしまう。「おまえもこの繋がっている時間の中に生きよ」と。
ギィ・ドゥボールは労働と余暇、公的なものと私的なものを区別して、余暇や私的なものを顕揚することで「労働を拒否」したのではなく、その区別自体を無効にし、労働と余暇によって塗りつぶせると感じられている時間の流れそのものを批判した、というようなことが先週見たドゥボールの映画とパンフレットを読んでにわか仕込みなりに分かってきた。分かった気がしている。気がしているだけだ。
とするならば、ついに、火葬場での唯一の賃労働を突然の解雇という形であれ逃れ、ついにアンナの誕生日を祝うために、彼女が眠る部屋に入り、ベッドで横たわる彼女と、たった独りで、残された(誕生日パーティーというスペクタクルの時間から取り残された残滓)パンやチーズ、ローストビーフを食い、ワインを呑み、酔っぱらってしまうような時間こそは、労働と余暇のみで私たちの生が支配されているものではないのだという、「別の時間のパーティー」としてこの映画のクライマックスとして見てもいいような気がした。