私の中のあなた

高見映ことノッポさんNHK教育テレビに出演していて、自らの幼少期を振り返り次のようなことを語っていた。「わたしは5歳くらいで大人がウソを付いたり、大人が子どもを子ども扱いしている、という事実に気づいていました。そのことをはっきりと分かっていました。」確かおおまかにそんなようなことを語っていた。そしてそのことはノッポさんに限らないこと、誰しもが気づいていたこと、気づいていることだと思い、音量を最小限に抑えながらへたくそなインタビューアーの質問は我慢して画面を見続けてしまった。
「シーズ・ソー・ラブリー」で大人の都合に振り回されながらも、ジョン・トラボルタの自宅にあるバーカウンターで「ビールちょうだい!」と終盤でトラボルタに向かって叫ぶ子どもを写し出し、子どもは大人と地続き、いや大人は子どもと地続きであることを既に撮っていたニック・カサヴェテスの「私のなかのあなた」。
キャメロン・ディアスがすっかり母親役にはまってしまっていることに少しだけ寂しい気がしながらも、この映画でも白血病の娘が死に至るまでの家庭を、地続きにある大人と子どもの世界として描き出していた。入院中に同じ病棟の男の子に恋に落ち、先に逝ってしまった彼の元へ自らも向かいたいために、妹の臓器移植による治療は望まない姉。そこで姉妹が考えたのは、妹が姉に対して臓器提供を拒否するという訴訟を両親に対して起こすことだった。
両親を訴えるところは、たまたまVHSで見た「ペーパー・ファミリー」(チャールズ・シャイヤー)のドリュー・バリモアの姿が思い出されたが、「大人としての子ども」を子役として演じ、そのまま「一度も子どもとして存在したことのないような大人」として映画の中で生き続けているように見えるドリューとは、この映画で両親を訴えるアビゲイル・ブレスリンは異なる気がする。
アビゲイル・ブレスリンはどちらかというと「子どもとしての大人」の世界へ「大人」をおびき出すように見えるのだ。
ニックの父、ジョンの映画のパンフレットだかチラシだか書籍だかに印象的な写真が掲載されていることをぼんやり記憶している。それは、ベン・ギャザラやシーモア・カッセルら、ジョンの映画仲間たちとその家族とともにジョンとジョンの子どもたちが楽しそうに笑いながら、身体を寄せ合っている写真。その中に、ニックが写っていたのかどうかは定かではないが、ニック自身の幼少期の生活は父親の仕事仲間の大人たちにまみれながらのものだったことが想像できる。写真に写っている大人たちはどちらかというと「子ども」のようにおどけた笑顔や身振りを見せている。どうやらその写真に「大人」は存在せず、「子どもの世界」に引き込まれてしまった大人たちがかろうじて大人の身体を携えて生きているように見えた。
とまあ、そんな勝手な妄想をニックに対してしながらこの映画を見ると、「大人の世界に入ってゆくことで成長する子ども」ではなく、「大人たちを子どもの世界に誘い出し、子どもとしての大人を生きるように仕掛ける子ども」がいるような気がしてきたのだった。
ノッポさんが云っていることが正しいのか正しくないのか判断しかねるけど、この映画を見る限り、子どもは大人側からの視点で「子どもから大人へ」という切断があるのではなく、あくまでも子ども側の視点によって「大人から子どもへ」という切断が、というか切断への契機が日々目の前にあるのだ。そんな感触を得た。だから「大人は分かってくれない」のではなく「大人は(子どもに)戻ってこれるのか?」ってことかな。
それにしても、父親と姉妹の兄という二人の男の存在感の薄さ。特に父親の何もできなさは、もう父も兄も、今までのように存在感を誇示して生きる場所がなくなっているのだなあと自分も含めてしんみり感じ入る次第だった。