metric live@渋谷CLUB QUATTRO

台風がやってくる直前、それまで降っていた雨が小降りになり、続いてほとんど止み始め、普段よりも人通りが少なく静けささえ感じられる渋谷でライブが始まった。
オリヴィエ・アサイヤスの「クリーン」、そして「NOISE」でその存在を知る事となったmetricの単独では初めての日本公演となるライブへ。
ステージに登場する紅一点のエミリー・ヘインズは、身体をカクカク常に動かしながら歌う。その様は、何も云ってないことに等しいけれど、最初、すこぶる機嫌の良い朝を迎えたソニック・ユースのキム・ゴードンのように見えた。
ほとんどをライブで演奏することになる4枚目のアルバム「FANTASIES」のライナーノーツの冒頭には、この4枚目のアルバムを制作する前のエミリーの心情を以下のように記して(想像して?)いる。

ライブのチケットを買うとき、あなたは本当は何に対してお金を払っているのだろう?まなざしでアルバムのカバーを眺めたりユーチューブのビデオをクリックしたりして情報を集めていたパフォーマーのアイディアに対してか。ライブで自分自身を表現するパフォーマーのアイディアに対してか。消費者はパフォーマーにいくらかの期待をする資格があるのだろうかー満足が約束されている”ヒット曲”連発のライブとかーそれとも、アーティストはファンの投資を信任投票を得たものとして、自分たちの気まぐれにいちいちファインが喜んでついてくると解釈すべきなのか。ほかの言い方をすれば、ファンとは本当に神様で、アーティストとは要望に応えてただファンを楽しませるだけの道化師の役割に追いやられているものなのか?また、支払われた金によってステージに上がる特権を得ているアーティストは、その契約条件に左右されるものなのか?

この冒頭の一節に続けて、2008年3月にトロントで行っていたライブでのエピソードが紹介される。それは、数年間に及ぶ夥しい数のライブで演奏を続けるうちにエミリーが抱え込むことになった(と想像される?)疑問に対して、トロントでの演奏中に、エミリーは突然演奏を止め、30分間観客と会話を始め、ついには、観客に対して、ステージで共に演奏することを促し、最後には観客席にいた子供をステージに上げ、その子供と即興デュエットを行った、というものだ。

渋谷でのライブを見たときに、この事前に読んでいたライナーノーツのことを思い出し、なんだか納得してしまった。もはや観客はステージ上のパフォーマーに何も期待できず、反対にパフォーマーも観客の満足を確信することはできない、ということは既に前提とした上でのライブだった。観客はパフォーマーに何かを与えてもらう受動的な存在ではなく、さらにパフォーマーも観客に何かを与える能動的な存在ではない。そしてライブは観客とパフォーマーが一体となる場所だ、と結論づけたいのでは全くない。
そうではなくてライブ会場で生まれている音に対して観客もパフォーマーもそれぞれが「付いてゆく」存在に成り下がってしまっているのではないか。
成り下がるというとネガティブに聞こえるけど、成り上がるって云ってもいい。(事実、ステージ上でのエミリーの立ち位置にはサンプラーの下からスモークと共に風が常に流れていて、その場所に立つたびに顔に垂れ下がった髪の毛がフワフワと上に舞い上がっている姿が非常に印象的だった。まあ「下がっても」、「上がって」もどちらも同じことだけど。)
観客である私たちが壇上にいる誰か(パフォーマーでも演奏家でもなんでもいいけど)から何かを与えてもらうことはできない。それは前提でしかない。演奏される音に対して、演奏家と平等に付き合わざるを得ない現在の観客は、始めから壇上にいる、ということと等しいのではないか。くどいようだけど、それは演奏家と観客との一体感とかそんなことでは決してなくて、音に「付いてゆく」一員として、演奏家と観客それぞれが別々にライブに関わっているという事態なのではないか。
そのときに、演奏家も観客も平等にライブの前まで抱えざるを得なかった日常性や存在の一貫性みたいなものから脱線して、演奏家も観客も「匿名性」を纏いながら音に「付いてゆき」、一人一人がライブを動かしていくアクセルを踏む足であり、停滞させるブレーキを踏む足になる。
そんなこと「普通じゃん」と云われればそれまでだけど、演奏者という観客に対しては特権的な立場をかろうじて確保できていたであろう60年代後半から70年代にかけてのキンクスが、レイ・デイビスが「普通の人々」(Ordinary People)として、また逆に「みんなスター」(Every body's Star)として歌ったときに明らかにされていたことと同じなのだ。
ついでに云うと「普通の人々」はネグリの云う「マルチチュード」のことなんだ。
違うか。