向き不向き

貧富や優劣、経験の差、やる気のあるなし、ウツかソウか、音がなっているかなっていないか、覚えているか覚えていないか、おもねるか孤立するか、生きるか死ぬか、息するかしないか、太るか痩せるか、やるかやられるか、やるかやらないか。
だから、そういったことをいったんぜんぶうっちゃって、向き不向きだけが最優先されるとかはどうだろうか。
向いてるものやことはなにかしらあるんじゃないかと、考える。考える振りをする。
振りをすると、いろんなものが邪魔をする。
でもね、朝(別に朝じゃなくても)、起きて、始めにすることの次にすること。または、しようとしてしまうこと。その先に「向いてること」があるのかもしれない。
だって始めは顔洗ったり、歯磨いたり、果汁飲んだりするから、その次にすること、しようとしてしまうこと。
2番目にすることから、何やら他なるものからの「管理」や「抑圧」や「偏向」や、その他「不向きかもしれないものへの後押し」がやってきているような気がする。
2番目にすることが仕事場への準備だったりする人が多いからこの世は生きづらい。

とはいっても。

仮に「いまここ」ではないユートピアを想像して、それが万が一「実現し」、いや「実現しなくとも近づいて」しまったりしたりしても。

「生きづらい」のは、もしかしたら全く変わらなく毎朝やってくるかもしれないのだなあ。そしてたぶん、それはホントウのことだと思う。

そう考えると、いやもちろん、目の前にある、身の回りにあるファックなひとやもの、制度や空気には抵抗をしつつも、拒否をしつつも、もういっぽうでは、この「生きづらさ」のことをどうにかしたりしなかったりの方が、大事なことのような気がする。

そこで、最近、少しづつ始めたことはといえば、とにかく「2回」すること。

過去に読んだ本を2回読んだり、過去に見たはずの映画を2回見たり。

するとすると、時間の流れ方が少し傾いて、速度を落とし始めてくる。

するとすると、それまで悩んでいたかたちがかたちを変え始める。

例えるならば、井の頭線永福町駅で急行と各駅停車とで分かれて停車するけれど、ふと気がついたら、「急行」と「各駅」以外のための線路が用意されていた、とでもいえばいいのか。

線路は、1本や2本ではなく、3本目、4本目があるはずなのに、どうも「2本しかない」ように見せられている現実や日常生活に反吐がでる。