背中で語れる男になるために

しつこいようだけど、相変わらず枕元には週間プロレスの三沢追悼号を置いて、寝る前と朝起きる際に、表4に写されている両手を高く突き上げた三沢の後ろ姿を見る。
40代半ばのレスラーの背中の筋肉は、三沢個人が受け止めることができるであろうことどもの総量を超えて、どこかこの世の全てをにゅるっと吸収してしまえそうに思える。

病気して、入院して、ジムに通い始めて、ジム辞めて、水泳続けて気がついたことは、身体と付き合うことの楽しみと苦しみ。

特に泳いでいる時の個への収束と個からの解放が同時にやってくるような感覚は、ひとまずまだ終らない、まだ動かなければ、まだやることはある、まだこれからだ、そんな気にさせてくれる。

不連続。

最近はそのことばかり考える。

「切断」といったらオシャレなので「不連続」。

不連続を肯定すること。身の回りの不連続、意識の不連続、体調の不連続。

こう書いてみると「切断」の方が適したコトバのように感じるが、まあいいや。

後ろを振り返ってる暇はない。前に進むために使えそうなものだけをカバンに入れて、偉大な死者からも使えそうなものだけを拝借してカバンに入れて、ただただ進む。

失業者のみなさん、一所懸命書いたであろう職務経歴書は今すぐ破りすてましょう。キャリアアップやらダウンやらは気のせいです。っていうかキャリアって何ですか。

不連続です。不連続でいいのです。

不連続なこころや身体、はたまた他者を肯定すること。

それは、ワーナー・ビショフが原爆投下後の広島で撮影した二枚の写真の間を隔てる果てしない距離と時間のなかで彷徨いながらも堂々と生きてゆくことなのでしょう。

その二枚のひとつには、終戦後爆心地で土産物屋を営む被爆した男性が正面から撮られています。

もう一枚には、まったく同じ男性の後ろ姿が撮られています。

いずれも裸で立つその男性の身体にはやけどのあとが見えます。

同じ男性にも関わらず、正面と背中で二枚別々に撮られたその写真はたぶん、男性自身には全く見ることもできず意識することもできない「背中」と鏡越しに見ることができる「正面」が時間も空間も別なものとしてあることをはっきりと提示していたように思います。

そしてそれが多分私が云う不連続であることなのかもしれません。

違うか。

というわけで、「不連続殺人事件」を読み直してみようかな。

違うか。