川と砂漠、そしてアスファルト

年甲斐もなく某大手レンタルショップでアルバイトが始まる。その多くがフランチャイズチェーンで展開されていたことすら知らず、たらたらと働き始めたものの、常時店内を流れ続けるへんてこりんな宣伝のみの有線が気持ち悪いし、どう考えても低賃金のアルバイトを搾取するだけ搾取して、上がりは本部へ、ひいてはフランチャイザーである本社へ取られているだけのような気がして、初日からしょんぼりする。よくもまあ、煩雑かつ繊細な気遣いが求められる作業を熱心にこなすものだなあ、アルバイトさんは。
お客さんから返却されたDVDを棚へ戻す作業は、映画の海で溺れるような体験なのかなあと少しだけ期待していたけれど、なんのことはない、ロードサイドショップであるその店で借りられる多くは「韓流」と「アメリカのテレビドラマ」。あぁ、よく分からん。
気を取り直して、サンプルセールで服買いに。パンツはすぐに気に入ったけれど、生まれて始めて購入を考えたレザーのブルゾンが似合っているのか、似合っていないのかさっぱり分からないので、同行した妻にすべて判断を任せる。結局購入。定価は貧乏一家にはとても買える金額じゃないけど、サンプルということで、なんとか。
天気もいいので、外苑前から渋谷へ急ぎ、東急で3回目の「チェンジリング」へ。
もうすぐ「グラン・トリノ」の封切りというのに、この時期まで「チェンジリング」をひっぱって上映し続ける東急は偉い。というか、封切り日からずらして、だらだらと上映し続けるのは映画館の商売としてありなのでは?いや、なしか。
アンジーの息子ではなく、アンジーの息子に助けられたことで生き延びた少年の母親から電話が入り、警察に無事保護された少年を警察署に見に行く。取調室の窓越しに少年を見るアンジー。少年の母親が我慢できず、聴取が終わるのを待たずに部屋に入り、息子を抱擁する後、取調室の窓越しにその様子を見つめるアンジー。その時、映画全体に印象を滲ませ続け真っ赤な紅が塗られた唇を片手で覆う。蓋をするように。生身の彼女と窓に写る彼女が向かい合い、唇を隠す姿をお互い見るように見えるショット。3回目にして、何かこのショットがこの映画で決定的な瞬間のようにも思えてきて、涙がホロリ。母親が決して戻ってこないであろう息子を探し続ける覚悟。「ミスティック・リバー」でマーシャ・ゲイ・ハーデンが最後に山車が進み続ける道路で見せた表情と共に、アンジーのこの二つの顔は、一生忘れられないような「母親の絶望と覚悟」を見ることができたような気がする。
また、「帰還兵の生」とでもいえるようなテーマのことを思う。「白い肌の異常な夜」でも「センチメンタル・アドベンチャー」でもとにもかくにも、ほとんど死体のようにイーストウッドの肉体が画面に登場してから、自らの体験を伝えられずに、けれども生き残る者たちに伝えようともがく帰還兵としての生。「チェンジリング」に関しては、決して戻ることのない少年が「戻ることのなかった兵士」として、「帰還できなかった兵士」として登場しているような気がして、「帰還兵としての生」の正反対にある「残された母親」の物語として見えてきた。
そう考えると、この映画の最初から微かな予感というか、勘違いを誘われていた「モノクロなんじゃないか」という感覚は、口紅を隠すシーンのすぐ後のラストショットに、現実になってしまう。それはまるで決して戻ることのないであろう息子に対する、またイリノイ州で殺された少年たちに対する「喪の儀式」として。
更に、ラストシーンでゆっくり「モノクロ」になるシーンでは路面電車や自動車が流れる道路が写されているけれど、「ミスティック・リバー」と共に、イーストウッドの映画において、川のように流れる道路で生きる人間たちというのもテーマになりそうな気がする。特に、「ミスティック・リバー」は題名からしてそうだし、実際に川面の煌めきから映画が始まり、道路で終る。その道路は、3人の少年たちが生きる場所であり、死ぬ場所でもあったのだから。少年時代のショーン・ペンたちが乾く前のアスファルトに自らの名前を枝切れで傷つけ、署名するさまは、川のような道路で生き、死んでゆく登場人物たちが予め自らの墓に名前を刻むようにしか見えなくなってきた。