人間的な、あまりに人間的な

一昨日の前日。市役所の子育て支援室にて書類提出。保育園問題はひとまずことなきを得る。そのままハローワークへ。失業保険が貰えなくなると思ってこちらも手続きに向かうと、週明け改めるように云われる。相変わらずその理由がよく分からない。ブツブツひとりごちながら、自転車でいったん帰宅した後、渋谷へ。
「チャーリー・バートレットの男子トイレ相談室」(ジョン・ポール)。なんだかすごい邦題だけど、ロバート・ダウニーJr.がでているというだけで、ヒューマントラストシネマ(あれ?シネ・アミューズっていつなくなったんだ?)で5人くらいしか観客がいないなか見る。
天才マックスの世界」を思い出しつつも、演劇のシーンは瑣末な扱いで、上流階級の通う私立高校から公立高校へやってきた転校生がいじめに合わないために始めたカウンセリング込みのドラッグの処方で一躍人気者になっていくさまが中心の物語。ロバート・ダウニーJr.が自宅でラジコンの船を操縦しちゃったりするのはトリュフォーへの憧れなのか。男子トイレで壁越しに主人公と患者が語り合うなかで、女の子がタバコの煙をくゆらせながら相談するさまはロベール・ブレッソンの「抵抗」なのか。まあ、そんなことはどうでもよくて、「アメリカン・ティーン」を見て思ったことと同様、もはやアメリカの高校生の生活がちっとも楽しくなさそうで、極東に住む日本人高校生にもちっとも「憧れ」の対象にはなっていないのではないかということ。90年代以降から既にそうだったのかもしれないけれど、「プラム」で大団円を迎えたりするアメリカ高校生の生活って、少なくとも80年代には「憧れ」の対象としてあらわれていたような気がするが、どうも今はそうじゃない。それじゃどう変わってしまったかといえば、それは「サプリメント」を求める生活のような気がした。この映画であれば、青年による「カウンセリング」がそうだし、精神科医から大量に処方されて販売される「合法ドラッグ」がそうだし、「アメリカン・ティーン」では「どちらかといえばシニカルな恋愛」がそうなのかもしれない。とにもかくにも、ぜんぜん楽しそうじゃないのだ。(それに比べると「女バス」に登場していた女子高生たちは妙に「豊か」な高校生活を送っているように見える。)日常生活に何かが足りないと感じつつも、それに対して大きく解決策を与えるような変化は求めず、訪れず、どちらかというと逐一小さな解決を、断続的に与えてゆくことでなんとかやり過ごす。
まま、平日の昼日中に映画館でがっつり映画を見るという感じにはならないけれど、こうしたアメリカ映画はコンスタントに見ていたいとは思った。
一昨日は久し振りに阿佐ヶ谷「たなか」で昼食をとって、そのまま徒歩で善福寺川公園へ。さすがに桜は散り気味だけど、まあまあ花見客は楽しそう。花見客の横を通過して、我が家は児童交通公園なる場所へ。どうもこどもたちが交通法規を自転車やゴーカートに乗りながら学べるとう趣旨らしいのだが、これがなかなかどうして大人もそれなりに楽しめる。というか、信号機がいたるところに設置されていて、道路を走るのは自転車という異様な光景が楽しい。帰宅後はくたくたになっていたので、夕食は軽めに、でも元気を出そうということで、ネバネバ定食。納豆を筆頭にネバネバした食材をただひたすら混ぜるだけのものだけど、これがすごく美味しい。納豆、山芋、オクラ、トンブリに茗荷、ネギ、海苔を混ぜるだけ。
昨日は一日中ぐったり。吉祥寺で少しだけ買い物してすぐ帰宅。
そして本日は、朝からハローワークへ。30分以上待たされてひどい対応で悪態付くものの何も解決せず。前回同様ブツブツ文句言いながら歩くものの、ふと気がつく。得てして公務員は「機械的」な対応しかしない、とか云われるけれども、事態は逆なのではないか。つまりそう感じる私たちの方がすでに「機械」のように「機械的」で、だからこそ、悪い意味で臨機応変に、アナログに対応してくる公務員こそ、とても「人間的」な姿を残しているのではないか。まあ、公務員批判を真剣にしようとするならカフカみたいに自分で公務員やりながらじゃないと全然説得力ないし、妙に「嘆き節」になるばかりなのですぐに忘れることにする。それにしても、私たちがこんなに役所仕事に腹が立つのは、自分たち自身が既に「機械」になっていたからだったとは、今更ながら気が付いて、変に納得。
いやな気分を払拭すべく、そのまま吉祥寺で「トワイライト」(キャサリン・ハードウィック)。「ロード・オブ・ドッグタウン」の女性監督の映画だ。
吸血鬼一族が高校に通っていて、女の子の血を吸うのを我慢して恋愛する、って変な話。女の子はクリステン・スチュワートで、「パニック・ルーム」の時の方が可愛かったなあ。あ、「イントゥ・ザ・ワイルド」にも出ている。それにしてもこの映画の高校生たちもどう考えても感情移入できそうなキャラクターはなく、ただひたすら、彼ら、彼女らのつまらなそうな学園生活を見届けるという感覚。娘と暮らす父親も影が薄すぎるし、別居中の母親も中途半端だし、クラスメイトたちもいるのかいないのか分からないし、吸血鬼さんとの恋愛も、どっち付かずだし。
一応、この映画でも「プラム」で大団円を迎えつつも、だれもいなくなったダンス会場で少し踊ってオシマイっていうのもねえ。
こうして、アメリカの高校生たちは学校生活を淡々と終え、溶解し続ける暗澹たる経済状態のオトナ社会へとヌルヌル足を踏み入れていくだけなのでしょうか。
と、ここまで書いてみたものの、どうも違う気がする。決して、カタルシスを迎えず、ドラッグにも溺れず、病むこともせず、ただひたすら、局所的な渇望に対して、そのばしのぎの応対を繰り返す彼ら、彼女らのあり方こそ、もうすぐ10年経とうしている21世紀を生きるわたしたちの、つつましやかな姿そのものなのではないか。「サプリメンタルな生」とでも呼んでオシマイにしてみる。