unknown legend

たしかフランス語で「revenant 」って、revenir(再びやってくる)からの名詞で「幽霊」って意味があったと思うけど、「もう一度やってくる」、「もう一度帰ってくる」ことはそもそも「幽霊」ってことなのかしらん。小川紳介の「古屋敷村」で第二次大戦から生還する帰還兵が写されるけど、彼らも「幽霊」ってことなのか。
風邪が悪化しまくって、咳が止まらないなかなんとかやり過ごしながらも「レイチェルの結婚」(ジョナサン・デミ)と「ミルク」(ガス・ヴァン・サント)を見る。
16mmのキャメラで手持ち撮影で撮られたらしい「レイチェルの結婚」はアン・ハサウェイが今まででいちばんいいのでは。彼女は今回のようなどちらかというとアバズレ女を演じると光ると思います。「家族の崩壊」とかどちらかというと「家族」という枠組み、「家族」という括りにネガティブな言い方がされて久しいけど、そんなことどうでもよくて、現在を生き抜くには「家族」を利用して、「家族」に利用されればいいのだ、ということをポジティブに語りかけてくる映画のように見えた。資本主義社会で生きる、生きてしまっていて、その資本主義社会がどうやらにっちもさっちもいかなくなってきているのが現在だとすれば、ほとんどの人々が「一度失敗」しているといえる。その「一度失敗」してしまったところから「もう一度帰ってくる」場所が多分「家族」なんだと思う。麻薬中毒患者の収容施設から「帰ってくる」アン・ハサウェイがまさに「幽霊」のように振る舞い、「幽霊」のように生き直す「レイチェルの結婚」は、そんな意味での「もう一度帰ってくる」場所としての「家族」を、結婚式で新郎が歌うニール・ヤングのunknown legendとともに静かに祝福しているのだと思う。決して姉の結婚そのものを祝福するのではなく。そして小川紳介の映画のようにフィクションとドキュメンタリーの境目が溶解する場所が「家族」なんだと思う。だからこそ、「家族」という入れ物は生きてるのが事実(ドキュメンタリー)なのか嘘(フィクション)なのか、そんなことがどうでもよくなっている「幽霊」という存在を受け入れることができる。そのとき、「家族」に「もう一度帰ってくる」存在は、どんなに平凡であろうともまさに「知られざる伝説」として生きていくことができるのかもしれない。
エリック・ロスの脚本で「フォレスト・ガンプ」(ロバート・ゼメキス)がかつて撮られ、昨年は「ベンジャミン・バトン」(デビッド・フィンチャー)が撮られ、どうもアメリカの近代史、現代史がフィクションとして「もう一度帰ってくる」傾向はぽつりぽつりと続いているのかもしれないけれど、「ミルク」もその一つとして見ることができるかもしれない。たぶん、もう「新しい」出来事は起きないのかもしれない、いやそもそも「新しい」出来事が日々生起しているということ自体がどこか勘違いだったのかもしれないということに気が付き始めている。ハーヴィー・ミルクの人生があまりうまくいかなかったものだとしても、現在を生きる私たちが彼の人生をやり直してあげればよいのではないか。恐らく21世紀は、20世紀に「新たに」起こったことだと勘違いしているその勘違いを全てリセットして、「もう一度やり直して」あげる100年になるのでは。
だから「新しい」ことを始める必要なんてどこにもなくて、ただ自分の父や母、祖父や祖母が生きた時代に焦点を合わせたりずらしたりしながら、彼ら、彼女らの「替わり」に「もう一度やり直して」あげること。その場合の「替わり」は、自分を犠牲にしてということでは全くなくて、ただ単純に「替わりに」「生き直して」あげること。それはどこか父や母、祖母や祖父の「幽霊」のような存在として生き直してあげることになるのかもしれない。「幽霊」は「もう一度やってくる」。暗闇の中で何度でも上映しなおすことができる映画を見続けてしまうのは、きっと「もう一度やり直す」ことを誰に対しても肯定してくれるからなのだろう。日常生活にかまける時間から少しでも離れて「もう一度やり直す」「幽霊」として生きてみること。そして「幽霊」としてやり直す場所が、親が離婚していようが、娘がジャンキーだろうが、共に暮らすパートナーが同性愛者であろうが、自殺してしまおうが、「家族」なんだと思う。