そだてること

一日中、こどもと向き合っていると、当たり前なのかもしれないけれど、ぐったり疲れる。ヘトヘトになる。間もなく3歳を向かえる娘は、コトバという媒体を手にし始め、コトバを発する自分の声とコトバを受け止める父親の反応を吟味しながら、彼女の意図することの一致と不一致を、合意と齟齬を吟味してゆく。それが成長していくことと云われればそれまでだけれど。なんだか恐ろしいことのような気がする。こうして「社会性」やらを身に付け、「日本語の海」にこれから呑まれていく過程は、彼女が生きていくために必要なのかもしれないけれど、なんだか腑に落ちない。コトバが不完全なままの現在の父と娘のディスコミュニケーションは、このまま続いていた方がよいのではないか。通じ合ってしまうようになったら、もうなんだか、彼女の親として存在する必要なんてない気がする。
そんなことはさておき、「子どもを育てる」っていうのは「子ども」という目的語が付いてしまうけど、「育てる」って間違いなく「自動詞」ですね。
しがない失業者ですけど、「再就職」、「さいしゅうしょく」、「再修飾」って、もう一回「修飾」することでしょ。修飾語って形容詞でしょ。もう形容詞なんてみんな必要ないんじゃない。詩を書いたり、読んだりすることで多くの人が生きていけるようになればいいけれど、そうも云ってられないし。いま、必要なのは「自動詞」ですよ。
目的語をもたない、目的をもたない動詞ですよ。同志も必要ですよ。たぶん、「生きる」とか「生む」とか「育てる」っていうのはいずれも「自動詞」ですよ。
もう「再修飾」なんてしたくないんですよ。そんな暇はないんですよ。
世界中で子育てをしているママとパパには、育てることに対する対価としてお給料を支払うべきですよ。原爆の町からお舟を出して、若者たちを何百人も海の向こうの誰もしらない国の海賊さん討伐にお金なんか使ってる場合じゃないですよ。むしろ海賊さんの中にもいるであろうママさんとパパさんにお給料を支払うべきですよ。今必要なのは、そういうことですよ。
みんなのアクションが全て「自動詞」になってしまえばいいんですよ。あ、それって「動物化」ってこと?
「闘争のアサンブレア」(廣瀬純+コレクティボ・シトゥアシオネス)は、明日にでも書店に走ってすぐ買いますよ。読みますよ。