own goal

ただでさえ重い腰がどんどん重くなり、しまいにはホントに腰痛がやってきて、うんざりしていたら、こんなニュースを見た。

http://www.saga-s.co.jp/20081112arikou

笑ったはいいけど、次の瞬間にあんまり笑えなく、もう男なんて地球上からいなくなってしまえと思っていたところ、続いて見たニュースがこれ。

http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200903100022.html

アメリカに住む子どもの50人に一人がホームレス。

学校に行って、おうちに帰って、家族でゴハン食べて、寝て、また学校行って、という生活がもはやアメリカでも成り立たなくなってきているのか。子どもがホームレスっていうことは、親もホームレスなわけで、いったどうなってるんだ。テレビを見なくなってもweb上で更新され続けるニュースサイトは覗くけど、新聞も含め、彼らが日々書き、印刷し、更新してゆく情報が必要な人間の数がどんどん減っているのでは。というかもうひとつの国のなかでのマスメディアなんて、どこまでも一部の人々にしか必要のない情報を、それも必要だと思わされているだけの人々に対して、目の前の危機をひたすら先送りにするためだけに機能していて、それってもう単純に害悪でしかないような気がしてくる。ちょうど世界恐慌のころ、1931年にベンヤミンが書いた「カール・クラウス」を読んでいると、新聞なんて100年前から同じようなものだったのは確かめられる。
うーん、誰のために、何のために生きるか、なんて問いの立て方が間違ってるのかもしれないけれど、こうなってくるとそうも云ってられないような感覚が身体中を包み始めて、ただひたすら、ホームレスとして世界へ放り出され続ける子どもたちのためだけに生きる方がいいのではないか。いやそれすらも「良心的」な人間としての反吐がでそうなエクスキューズでしかないのかもしれない。だけれども。。。

「常套句(フレーズ)、これは技術の産物である。『新聞製造装置は、ひとつの工場のように、作業分野と販路とを要求する。一日の決まった時間にーーー大新聞では二度三度とーーー機械のために、一定量の仕事が供給され準備されねばならぬ。それも不特定な材料からというわけではなく、そのあいだにどこかで、人生・政治・経済・芸術などのどれかある分野でおこったすべてのことが入手され、ジャーナリスティックに加工されねばならぬ。』クラウスはこのことを実にうまくつづめて、次のようにいう、『技術はなるほど新しい常套句(フレーズ)をつくりだすことはできないが、人間の精神をして旧い常套句(フレーズ)なしではすまされないような状態にとどめておくものだ、といった解明が技術については可能かもしれぬ。変えられた生活と旧いままにひきずられている生活形式、というこのニ様性のなかに、世界悪はますます栄え続けて行く。』」(カール・クラウス/ヴァルター・ベンヤミン

ようやく春めいてきたので少しは明るくなれるかと思いきや、げっそり暗くなりながらも、「オーストラリア」(バズ・ラーマン)を渋谷シネタワーで見る。予告編からオーストラリア観光のタイアップ丸出しでさらにいやな感じがしていたら、本篇もすべてタイアップに見えてきて、どう考えても2本分ある物語をあからさまに2本分のように1本の映画で語って見せられると、タイアップの匂いと相まって、すぐにお腹いっぱいになってしまった。