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「辺田部落」は後回しにして、小川プロ特集5日目は「映画作りのむらへの道」(1973)と「どっこい!人間節ー寿・自由労働者の街」(1975)と「クリーンセンター訪問記」(1975)の3本。
「映画作りのむらへの道」は「辺田部落」撮影終盤から編集作業の時期にかけて小川プロ自身によって彼らの活動を記録した作品。「圧殺の森」以来、画面に自身の姿を写すことはなかった小川紳介が当然、登場する。辺田部落の老人への聴き撮りでは、畦道に座り込みながら話す老人に、監督、カメラマン、録音、助監督の4人が小さく寄り添いながら撮影されている様子が分かる。撮影後のラッシュ、ラッシュ後の話し合いは、スタッフ皆で食事をし、酒を飲みながら進められる。常に躁状態ワーカホリックに見える小川紳介。ひとの話を聞いているのだか聞いていないのだか判別できないほど、早口で話しを切りだし、カメラマンの田村正毅が何か違和感を感じながらも応答しようとするタイミングで、小川紳介が、今だ話始めたばかりの話題を切り替え、次の話題にもっていこうとする。小川紳介の意志と反省と、明日への展望がそれぞれ同時に動き続けているからなのか、彼独りの存在が、小川プロの活動をドライブしているように見える。
辺田部落の撮影スタッフの様子を伝えた後には、完成した作品を全国で上映するための資金集め、手配、調整を一手に引き受ける東京にいるスタッフたちが紹介される。三里塚での製作進行状況を常に把握しつつ、九州から北海道まで全国に散らばるスタッフとの連絡を密にしながら、完成した映画をきちんと観客の元に届ける作業。東北での上映の交渉に出かけたスタッフが出張から帰京後、岩手県で遭遇した出来事を興奮気味に語る箇所では、撮影スタッフと同等に小川プロとしての誇りと楽しみと苦しみを抱えながら生きていると感じる。
三里塚で空港反対闘争を続ける農民たちの労働が農作業に止まらず、闘争にまで及び、農地を耕し、作物を育て、収穫するというサイクルに集中できなくなってゆくなかで、そんな農民たちに替わって、まるで農作業のサイクルそのもののように「撮影」し、「編集」し、「上映する」という循環を繰り返すことを小川プロは実践していたのだと実感する。三里塚だけでなく、日本中の農民が農地から断続的に引きはがされている最中、私たちの世界で何か起きてしまったのか、また起きようとしているのかを常に問い続ける小川プロ製作の映画は、根なし草となってゆく農民たちが流入していった都市部へ「流通」されることで、都市でも生き延びてゆかなければならない勇気を、三里塚の農地から送り返していたのだった。
農地で製作した映画を都市部へ送り届けるという活動に止まらず、「どっこい!人間節ー寿・自由労働者の街」は、まさに農地から都市部へ流入し根なし草そのものとして生きざるを得ない横浜は寿町という都市部での製作にまで乗り出す。実際に寿町のドヤに住み込み、撮影を進めていったのは、小川紳介ではなく、若手スタッフたち。
そこでカメラマンの奥村祐次をはじめとするスタッフたちが出会ったのは、どこから寿町に辿り着いたのかも分らず、どこへ行ってしまうのかも分らないような人たちだった。映画の冒頭、身寄りが全く不明なため、合同慰霊として弔われる死者たちの遺影が写し出される。死亡が確認されるとすぐに遺体解剖にまわされる人々の遺灰が、山下公園だろうか、横浜の夜の海へ投げ込まれる。読経をあげる僧侶たちと残された寿の労働者たち。
生まれた場所からだけでなく、家族からも引きはがされ、窃盗を繰り返し、少年院や鑑別所を転々とした果てに寿に辿り着いた労働者や、筋ジストロフィー症を抱えながらも、病院を嫌い、ドヤに住み込みながら日本が共産主義社会へ近づいてゆくであろうことを願う人、アルコールの過剰摂取で肝臓を致命的に侵され死にゆく労働者が、寿町には生きていた。
完全なる根なし草として生きる彼らのなかで取り交わされる生きることへの信念と、死んだ方がましではないかという逡巡がないまぜになった言葉と所作は、仲間の労働者がバタバタと死んでゆき、そんな死者の葬儀や港での荷役を終えた酒盛りの場所で燃焼を続ける。俺も生きている、お前も生きている、でもあいつは死んでしまった。俺も間違っている、お前も間違っている、でもあいつは死んでしまった。俺は間違っていない、お前も間違っていない、でもあいつは死んでしまった。だから俺はお前を許せない。そして俺は俺を許せない。仲間の労働者の死を前にして、死のそばにあって、ほとんど同じ量で、しかも大量の愛と憎しみを身体中に満たしながら、ほとんど同じ存在としている目の前の生き残った仲間に対して、罵倒を繰り返す。しかしその罵倒は常に自分自身に対して突き刺さる棘でありナイフであり、致命傷に限りなく近い生き延びるギリギリの傷を負ってしまうような耐えがたい存在の否定そのものとして、自分と相手がいるこの場所、仲間の遺影の前、ドヤ近くの酒場の空間を満たす。
決して顔の表情を写されることがない男性と、相対するジョニーと呼ばれるドヤに暮らす青年と寿で生きることの過酷さと残酷さについて対話するシーンがある。出自だけが日本人ではない男性とジョニーの間には、ドヤで長く生活するもう一人の男性がいる。カメラは在日朝鮮人の背中越しにジョニーを捉え、画面左側に二人の間にいるもう一人の男性を写し出す。自らの生命を脅かす寿町の外部からの暴力に対しては、暴力で対峙しなければならないことを主張する青年ジョニーに対して、出自がゆえの差別と暴力を外部から受け続けてきた背中しか見ることのできない男性はそれでも、暴力はいけない、とおだやかに反駁する。ジョニーは全く納得がいかず、泣きださんばかりの感情の高ぶりを露わに寿で生きてゆくための手段としての暴力の必要性を叫び出す。
二人の間に座るもう一人の男性は、寿に移り住む前にいた名古屋での出来事を語りだす。生活を共にした在日朝鮮人の兄妹。友人の妹であった彼女が通う学校で起きた差別にたいして、共に闘ったこと。出自が異なるだけで受ける苦難は俺もよく分かる。だからむしろ背中しか見ることができないお前の苦しみの方がジョニーの苦しみよりも大きなものだ。ジョニーよ、そんな彼が手段としての暴力を否定しているということの重さを分ってくれと、もう一人の男性は強く主張する。それでも感情的になり続けるジョニー。
農地から、いや漁業を生業とする人々が住む港街からでも引きはがされ、根なし草となった人々が共に生き、死んでゆく時間と空間の事実がここにはある。その事実とは、もはや全く同じことを感じ、同じことを見て、同じ音を聞いてしまう、感じざるを得ない状況にいながらも、ほとんど同じ存在となりながらも、徹底的に目の前の人間を否定し、自らも否定せざるを得なくなるようなもはや言語や所作を手段とした表現を飛び越した、命と命の燃焼であった。三里塚をいったん離れ、都市部へカメラを向け始めた小川プロの若手スタッフたちは、その事実を冷たさに限りなく近い辛うじて感じられる小さな熱として捉えてしまうのであった。
「クリーンセンター訪問記」は、山形県上山市から請け負ったゴミ処理場のPR映画。横浜からカメラは再び農村に近い山形県の山間の町へ向かう。ゴミ収集を担当する人から、ゴミの計量、ゴミの燃焼具合の管理、処理場町、などなどクリーンセンターで実際に働く人たちへの「聴き撮り」を積み重ねることで、当初上山市からの依頼で、「円滑に進められるゴミ処理作業」をPRするはずであった映画が、ゴミと向き合い、ゴミと共に生きる現場の作業員たちの日常が丁寧に描かれるというゴミの映画となる。
ラストシーンのクリーンセンターで働くみなさんが記念撮影と題して、ひとりひとり名前と担当作業を言わされる箇所は、もはやPR映画ではなく、そこで働くみなさんが三里塚の農民たちのように感じられ、可燃と不燃問わず、生産と消費のサイクルとしての資本主義をはみ出してしまう存在としてのゴミを詳らかに撮影することで、ゴミ視点による闘争のための映画のようにも見えてきた。