テアトル蒲田

毎日天気が悪くて寒くて鬱に落ちそうな気持をぐっと抑えて、アテネフランセへ。小川紳介特集初日。
国学院大学映画研究会時代の製作担当作品「小さな幻影」(1957)、「山に生きる子ら」(1958)と監督作品「青年の海ー四人の通信教育生たち」(1966)、「圧殺の森ー高崎経済大学闘争の記録」(1967)、「現認報告書ー羽田闘争の記録」(1967)。
「小さな幻影」は大学生が保育園か幼稚園に人形劇を見せに訪れ、その様子をカメラに収めていく前半から、後半は森の中をさまよう一人の少年が熊(の着ぐるみを着た大学生)に出会い、いっきにフィクションの世界へ。終盤、人形劇を終えたのか、着ぐるみの撮影を終えたのか、学生と少年、少女たちが手を繋ぎ、広めの道路を横一列に並び歩いていく。そんな彼らを後ろから独りぼっちで見つめる少年が写される。「内気な少年は自分で自分の道を切り開いていかなければならない」といったような趣旨のナレーションがかぶさりながら、その独りぼっちの少年を置き去りにして、大学生と少年、少女らは、画面の奥、道路の先へ向かってゆっくり歩いてゆく。大学生と少年、少女たちとの交流、交換がいとも簡単に成し遂げられ、世代間の隔たりを乗り越えた共闘(?)がどこかセンチメンタルに示されているように見えるところは、この映画に続く、小川紳介と彼の周辺の人たちにとってのある種の理想的は空間と時間があるような気がする。しかし一方で、「内気な独りぼっちの少年」というたった独りの人間を残酷に置き去りにしていく様は、監督作品ではないといえ以後長期間に渡る彼の活動の前に立ちはだかるであろう矛盾を予告しているかのようにも見える。この映画は、もしかしたら、小川紳介にとって、最初に撮られるべきであり、かつ最後に撮られるべきでもあったようなそんな印象を受ける。
「小さな幻影」をそのように身勝手に位置付けてみると、本来の意味で「最初」に撮られる映画としては「山に生きる子ら」が挙げられるのかもしれない。長野県の山間部、未だ電気もかよっていない農村地帯にある小学校の分校に通う生徒たちが捉えられる。自給自足の生活のための農業を営み、現金収入がないという資本主義社会にすらコミットしていない農村の一家が紹介され、「こうした農村地帯、僻地で暮らす人々の閉鎖的な性格は、自ら克服しなければならないであろう」といったような趣旨の、ここでも冷たく聞こえるナレーションが加えられ、分校の生徒たちが山から下りたところにあるであろう本校で行われる運動会に合同で参加する様子が最後に写される。どうも小川紳介がカメラを据える場所は、こうした農村ではなく、農村から多くの人々が流入していった都市部にまずはあるのではないかという予感と共に、「青年の海ー通信教育生たち」が撮られたのかもしれない。
「青年の海」では大学のキャンパスに実際に通う学生ではなく、日々は労働者として働きながら、自宅で勉強に励む「通信教育生」たちが、4年制から5年制に改変するという趣旨の「通信教育制度改定」に反対する闘争を立ち上げてゆく学生たちが描かれる。この映画の後に撮られる「圧殺の森」や「現認報告書」を以前見ているから言えるのかもしれないけれど、この映画で記録される闘争は後に続く、大学生の自治を守る、佐藤首相の訪米を防ぐ、日米安保改定に反対するといったような目的の闘争ではなく、一度聞いただけではあくまでも些細な目的として思える「4年制から5年制」へという制度改定に対する闘争だったということに注意してもいいのかもしれない。更に、闘争の主体となるのは、実際に大学のキャンパスに身体を置くことのない通信教育生だったということも注目に値する。つまり、通信教育生は、大学生であり労働者であるという二重生活を余議なくされている不安定な存在であるのに対して、いわゆる学生運動の主体として後に続く映画で記録される闘争の主体は、アルバイトはしているのだろうけど、あくまでも大学という場所に身体をしっかりと据え付け、労働者として暮らす親からの経済的援助に多かれ少なかれ支えられた存在であるという違いにも気を配ってみると、「青年の海」という映画も「圧殺の森」や「現認報告書」という映画では浮上し得ない学生運動の矛盾がはっきりと示されていると思われる。なんだかんだいっても親に食わせてもらってるんでしょ、あんたら、という意味において。そう考えると、「小さな幻影」のラストシーンで牧歌的でありながらも残酷に提示された彼ら撮影スタッフたちを待ち受ける矛盾が、具体的な形で、もう一度認識し直すことができたひちめんどうくさい回り道として「青年の海」があるのだろうか。そんな回り道としての映画の最後では、通信教育生たちの闘争がうまくいったのかいかなかったのかよく分らぬまま、突然、だだっぴろい空き地で若者たちが地面に敷かれた白いキャンパスのようなものに楽しそうに絵を描き、色を塗りたくっている画面が見せられる。その後、それまで彼らをまっすぐと固定した画面で捉えていたはずのカメラが動きだし、学生たちの周りをぐるぐると回り出す。撮影スタッフたちが、「学生でありかつ労働者である」という彼らの存在を正面からまっすぐ捉えることなどできない、という感覚に襲われたかのように。
「小さな幻影」から「青年の海」へ。自ら飛び込もうとする被写体たちが蠢く世界へゆく前に、その世界を記録していくことの矛盾をあらかじめ撮ってはしまったものの、なにはともあれ「圧殺の森」と「現認報告書」を次に製作する小川紳介
「圧殺の森」では、高崎経済大学の闘争、「現認報告書」では羽田闘争という具体的な闘争の世界に入ってゆく。極端に被写体の顔に寄ったショットや、学生と機動隊の戦いの様子をファスト・モーションやスロー・モーションで撮ったりと、どこにカメラを据えたらよいのか迷っているかのような状態のまま、具体的な闘争の記録に進んでゆく。そこでなされた闘争の内容はさておき、この二つの映画では、それまでも気になっていたものの、被写体の話すことばとアクションがほとんどのシーンで同期させられていない。どちらかというと人物の口の動きより遅れてやってくる声。いやそもそもその遅れてやってくる声は、画面に写っている人物が本当に発した声なのかも不明なまま、映画は進んでゆく。闘争を記録する主体は、記録すべき出来事に常に遅れてしか参加できないのかもしれないという不安をフィルムにそのまま投げつけるかのように。