「クリムゾン・キモノ」ほか サミュエル・フラー

昨日は初日となる「チェンジリング」(クリント・イーストウッド)を見に、、朝からバウスシアターへ。やたらと多い周りのおばちゃんが気になりながらも何度も泣いてしまう。もう1度見ることにする。
午後は、不確定要素を抱えたまま銀座の旅行代理店へ。銀座一丁目駅近くにある雑居ビルの中にある代理店で、入店するには電話予約が必要とのことで、電話していく。担当の男性の対応が頼りない上に、弱気かつ傲慢な印象を受け、「代理店」がつくものにはもう近付かない方がいいきがしてくる。果たして家族旅行は実現されるのであろうか。
その後はお茶の水サミュエル・フラー3日目。
「地獄と高潮」(1954)と「東京暗黒街・竹の家」(1955)。「地獄と高潮」は字幕が付いていないので、物語のディテールが不明ではあるものの、冷戦下の潜水艦内を主な舞台として登場人物たちのいつもながらの激しいやりとりの中に、この映画では、英語とフランス語ということばの投げかけ合いが加わっていた。
更に「東京暗黒街・竹の家」では、日本を舞台にしているから当然のことだけれど英語と日本語が飛び交う空間と時間が描かれる。アメリカ占領下における強盗・殺人事件の捜査、解決のため来日したアメリカ陸軍に所属する男性と彼の来日のきっかけとなった殺人事件でアメリカ人の夫を殺された日本人女性との物語。ところどころ日本に対するオリエンタリズムを感じさせるセットや状況はあるものの、そこは日本ではなくまるでアメリカかのようにアメリカ人男性と日本人女性が振舞っている。アメリカ人ギャングへの捜査でおとりとして潜入捜査を続け、ついにギャングのボスを追い詰めるシーンは、銀座のデパートの屋上で、なにやら独楽のように回転する大きなベンチの乗り物が登場して、ますますここは日本であって全く日本でないような見せ方がされていた。
本日は最終日。「チャイナ・ゲイト」(1957年)と「クリムゾン・キモノ」(1959)。
「チャイナ・ゲイト」は字幕が付かなかったためまたまた曖昧ながらおそらくベトナムを舞台とした映画。ナット・キング・コールが一兵卒で俳優として登場。ベトナム人の少年がナイフを振りかざす怪しげなおじさんから逃げるために走り出し、その少年を追い続けるシーンに続いて、ひとり座って歌っているナット・キング・コールがいるところから映画が始まる。敵と味方、また異なる人種などまったく関係ないかのように、接近と反発を繰り返しながら、死ぬことと愛することが濃密に混じり合う。そんな映画のように感じた。
「クリムゾン・キモノ」(1959)は、舞台を再びアメリカに戻し、ロスアンジェルス。冒頭と最後にロスの夜景が空撮で捉えられていて、それだけでドキドキする。昨日見た映画に続き、この映画でもアメリカではないものの要素として、ロスの日本人街(リトル・トウキョウ?)を舞台として、共に朝鮮戦争に従軍したアメリカ人と日系2世の二人の警察官の物語。「地獄への挑戦」の際にも露骨に出ていた「男性から男性への愛情」がこの映画にも滲みでていて、最終的にはアメリカ人女性と日系男性が結ばれるものの、どうも友情でもなく、かといって同性愛的でもないような「男性から男性への愛情」に満ち溢れている。(それにしても、アメリカの白人女性と日系人の男性が抱きしめ合い、キスするシーンに至る一連の流れは美しすぎる。日本人街で開催中の祭りで「連」のような踊り子たちが道路を練り歩いているなかの犯人の逃走と警察の追跡。状況はまったく異なるけれど、「パンチ・ドランク・ラブ」でアダム・サンドラーエミリー・ワトソンを追いかけてハワイに到着したその日、街の公衆電話で電話をするシーンはまさにこの映画を見て設計されていたのだと感じる。)男性から女性への愛情も当然ある。むやみやたらにキスを要求する男性とあっさりと受け入れる女性。ストレートに愛情を告白する男性と、しっかりと受け止める女性。それでもフラーの映画では、どちらかというと「男性から男性への愛情」に力点がおかれているようで、自らが第二次世界大戦に従軍して勲章までもらっているからかもしれないが、いまここで、目の前の人間を撃たなければ、殴らなければ、怒らなければ、愛さなければ、次の瞬間はお互いどうなっているか全く分らないような世界が、アメリカとアメリカ以外に広がっている。だからいますぐに、撃ち、殴り、怒り、愛さなければならないのだ、そしてそれが映画を作り、上映することだ、と叫ばれているかのような4日間だった。