「地獄への挑戦」ほか サミュエル・フラー

懲りずに酒を呑み過ぎて、二日酔いの朝は、ファックなことだけど、世界の悲しみよりも自分の悲しみの方に揺れてしまいそうになる気持ちを抑えて、久し振りに妻とランチ。2回目になる東銀座はレカン。東銀座で待ち合わせをしていたら、すぐそばのシネパトスで「ザ・クリーナー」」(レニー・ハーリン)でも見るかということも考えたけれど、娘を迎えにいく時間を想定すると無理そうなので止める。
やたらとゆっくりとした給仕のせいか、量は多くなかったが、すぐにお腹いっぱい。目当てのローストチキンはあえて食べずにメインを子羊と伊達鶏にしておいたのは逆によかったかも。それにしても、ランチを2時間もかけて食べると、それはそれで疲れる。根っからのプロレタリアートにはプチブルの時間の過ごし方なんてはなっから無理なんでしょうね。でもこのお店、リーズナブルな割には、非常にレベルが高い。もしかしたら夜はもっとすごいかも、と期待してしまった。
無責任にも妻と別れた後、お茶の水へ。サミュエル・フラー特集の1日目。「地獄への挑戦」(1948)と「アリゾナ男爵」(1948)を見る。「地獄への挑戦」がデビュー作であることすら知らずに見たバカ者ですが、ぶちのめされる。世界の悲しみは間違いなくそこにあった。ラストシーンでジョン・アイランドが拳銃で撃たれ、バーバラ・ブリトンに抱きかかえられる前に、確かに自分を撃った相手にも発砲しているはずなんだけど、その相手は死なず、ジョン・アイランドだけが死ぬ。彼の死の直前、愛するバーバラ・ブリトンではなく、自分の都合で殺めてしまったギャング仲間のことを愛していたと彼女に告げるとき、自分の都合や悲しみでなく世界の悲しみに加担していたことを告げたかったのだと思う。撃ち合いによってい死んでゆくものも、死ななかったものも、この映画の中では、冷徹な発砲音とは逆に、どこか「柔らかな銃弾」がお互いの身体の中にゆっくりと入り込んでゆく。まるで撃ち合う相手との愛の仕草を各々欲するかのように。殴り合い、罵り合い、撃ち合い。それこそが自分の悲しみではなく、世界の悲しみの中で生きることそのものなのだと、高らかに宣言されていたように思う。
アリゾナ男爵」は字幕が付かなかったけれど、英語がぜんぜんダメな分だけ画面に集中できた。今度バウスで爆音でかかる「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」はもしかしたらこの映画が起こす振動に反応して作られたのかもしれないと感じた。
あ、それからどうでもよい話。GmailをPCで使っているとスポンサーリンクという名のテキストバナー(広告)が貼られる。退職後にそれまで付き合っていた大手メーカー担当の大手広告代理店からどうでもいい仕事の依頼メールがきていて、何度か肩すかしを交えながらサラリーマン語で丁重に断っていたとき。ふとそのテキストバナーには「大手広告代理店への転職」というタイトルが書かれている。どうやらメールの内容、差出人の署名などから「大手広告代理店」というキーワードに結び付けて貼られたリンクと思われる。差出人の署名にある企業名を「大手広告代理店」として判断されたのまでは薄ら寒いながら理解できるけどその後の「転職」って。受信した人間が失業者であることすらメールの文面の中のキーワードから認識されてしまっているのだとすると(確かに自分のニートっぷりを楯にして仕事を断る文面を書いた)、これはこれで異様に腹が立つ。グーグルにはお世話になってますが、利用者がサービス提供者について知っていることよりも提供者の方が利用者のことを知っているとしたら。。。
もうみんなPCとか携帯とかやめちゃえばいいのに。