「エレジー」イザベル・コイシェ

娘を保育編に送り届けたその足で、水道橋にある厚生年金基金に退職金の一部の支払申請へ。必要事項を記入する書類には、「提出」と書かれていたので、わざわざ持参してみたものの、どうやら「郵送」でもよかった様子。相変わらずお役所のような仕事をしている人たちが作成する日本語は読みづらく、曖昧で、どうでもいいけれど、もう少し何とかして欲しい。結局、その分りづらい日本語によって、提出書類が一部足りずに、後日郵送するように云われる。健康保険組合に行った時にも見ることができたのだけれど、やたらと静かな職場で、でもそこそこ人口密度は高くて、課長(?)と思しきおじさんがスタッフの方に向けて机が設置してあって、なにやらパソコンのモニターをずっと眺めている。そのおじさんに監視されているスタッフの人たちも、伝票をめくっているだけの人もいれば、ただモニターを眺めているだけの人もいる。でも何かがおかしい。そう、誰も声を出して話をしていない。電話もならず、前後左右、すぐそばに他人がいるのに、それぞれが隔離され、別々の時間を過ごさせながらも、全体としては、その課長と思しきおじさんが、それぞれ別々に分離した時間を統括し、管理し、このようなへんてこりんな空間が生み出されているのではないか。
すぐに再び総武線に乗り込み、新宿武蔵野館で「エレジー」(イザベル・コイシェ)。ぺネロぺ・クルスとベン・キングズレーの物語というよりは、主演二人の歩みの外側で生きているデニス・ホッパーとデボラ・ハリーの夫婦関係の方をもう少し見てみたかった。メインの二人が出会い、愛し合い、別れるシーンの多くでクローズアップが多用されていて、とても狭い空間に閉じ込められた感覚だったのに対して、常にこの映画の背景として写されていたもう一組のカップルの方が気になる。
デニス・ホッパーが病に伏し、意識が戻らないままに、ベッドからデボラ・ハリーの洋服を右手で掴み、彼女の胸がはだけそうになるシーンなどは、この映画で最も緊張した。また、ニューヨークの著名な詩人としてのデニス・ホッパーが、彼の講演会で、友人であるベン・キングズレーにむやみやたらに褒め言葉を添えられた直後に、壇上で倒れてみせるあたりは、「完璧で官能的な作品。近年ではほとんど見られなかった映画」やら、「本年度オスカー候補、間違いない!」といったどの映画に対しても添えられるようなこの映画に対する「称賛の声」(?)を嘲うかのようで、すぐに続くシーンで自宅のベッドで横たわる彼の姿を含め、「とにかくおれを見ろ」と言われているように感じてしまった。
武蔵野館から久し振りにジュンク堂に向かい、「千のムジカ」に続いて、平井玄の「ミッキーマウスプロレタリアート宣言」を購入。その後、ディスク・ユニオンにて「Something Else」(オーネット・コールマン)と「Too Clean」(マックス・ローチ)を買ってしまう。まだお日さまが高いうちに自宅で読書をしようと、新宿駅南口方面から、京王線ホームに向かう途中、iPodから流れてきたランディー・ニューマンの「Good Old Boys」を歩きながら聞いていたら、突如、涙が流れてくる。あまりに恥ずかしいので、急ぎ足で京王百貨店の階段を降り、特急電車に飛び乗る。やっぱり頭がおかしいのかもしれません。
帰宅後、「ミッキーマウスプロレタリアート宣言」を読み始めたら止まらなくなり、2時間くらいで読了。
あ、それから家に籠って「Too Clean」を繰り返し聞いていると、あまりお腹が空かなかった。きっと、マックス・ローチたちが発する音が、個体として生きるための最低限必要な欲望(食欲)なんぞよりも、聞きながら読み進めた平井玄のテキストの方へ誘うように下っ腹を押してくれたからだと思う。