「チェ・39歳別れの手紙」スティーブン・ソダーバーグ

いいかげんに仕事をさがさなければなあと人ごとのように感じながらも、就職活動は結局何もせず。

金曜日は、朝から「チャーリーズ・エンジェル」のテレビ版をDVDで見続ける。第一話には、若き日のトミー・リー・ジョーンズが登場していて、思わずニコニコしてしまう。がんばれエンジェルたち。家事をこなした後に夜はユーロ・スペースで「エル・スール」(ヴィクトル・エリセ)。圧倒される。父と娘の関係、出来事だけを見れば、この映画を見た翌日に起きる出来事を予言していたかのように勘違いしてしまうほど、胸が痛い。
土曜日は、友人の結婚式。行きの電車で引き続き「千のムジカ」を読む。「音の統治術/反乱術」という文章の最後にこんな一節があった。

 グローバル資本主義という「一なる声」の絶対的な優位のもとで、牙を抜かれた「多なる声」が許容されていく。こうして音声の散乱こそ、この時代にふさわしい統治術となる。とはいえ、外の植民地収奪はもはや内への貧困に折り返された。「一」の直下には貧なる「多」が蠢いているのである。双方的なサイバー空間の中で声を採取する「国家の耳」はここに向けてそば立てられ、「音響兵器」の数々はここを目標にして投下される。新たな反乱術はこの条件の下で現れることだろう。だから今二十世紀の経験を想い起こしながら、この時代を生き抜いた一人の音楽家の呟きを聞こう。

「音楽は、こうして世界とふれあうことができる。
世界の不幸とふれあうのも、
冒険する人間にとっては避けられない過程で、
世界の不幸は、音楽の真実の響きです。」(高橋悠治


貧なる「多」であるわたしたちは、そう、バウスシアターに終結して、「反乱術の音」として爆音上映を見て、聞いて、感じて、「世界の不幸」と触れ合う「耳」にならなければならない。

最近急激に空き地が目立つようになった野毛での痛飲の度が過ぎたため、ほとんど眠らず始まった日曜日。午後にはジムで水泳のみ。その後、バウスで「チェ・39歳別れの手紙」(スティーブン・ソダーバーグ)。「28歳の革命」とはうって変わって、ボリビアでのゲリラ戦に寄り添うように手持ちカメラが多用されている。キューバでのゲリラとはことなり、戦況は始めから困難に見舞われ、戦いに勝利するためには必要な統制すらも取れなくなっている。隊員たちは、ジャングルの中を進むに連れ、肉体を疲労させ、鬚が伸び続け、戦略上呼び変えられている名前の錯綜と併せて、ゲバラゲバラ以外の隊員たちの区別がどんどんつかなくなってゆく。
喘息の発作がひどくなり、足を引きずりながら歩き続けるゲバラが、ゲリラ全体の歩みを象徴するかのように、ゲバラ以外に溶けていゆく。そうしてゲバラというカリスマの死は、2発の銃声と共に、一隊員の死として静かに描かれる。