かわいいからってだまされないぞ

ようやく購入したばかりの携帯電話が壊れたため、購入した家電量販店へ。症状を伝えると、「しばらくお待ちください」と言われ、しばらくお待ちした後に、もう一度同じ質問をされる。もう一度同じ回答をすると、「しばらくお待ちください」と言われるので、しばらくお待ちする。
しばらくすると、身分証明を求められ、免許証を提示する。結論からいうとどうも保障期間は無償で交換してもらえる症状らしい。
相変わらず携帯電話を購入するこのお店、この窓口ではお客さんをほったらかしにした感じが気持ちわるいけれど、よく見ていると窓口できびきび対応しているお姉さんもほったらかしにされているのではないかという気がしてくる。彼女はお客さんから言葉を受け取り、頭の中で適当に処理して、端末に何やら入力するためにパソコンを叩いて、足りないところは電話して誰かに聞いて、確認して、また適当に頭の中で処理した内容を言葉に変換してお客さんに伝える。窓口のお姉さんもお客さんである自分が感じるような気持ち悪い感じの中に一日中いるはずなのに、もはやそれすら感じることができないのか。はたまた携帯ショップを不快に感じる自分の頭がおかしいのか。いずれにしても、こうした気持ちは携帯電話に限らず、何かを買うときに感じることが多い。
ま、自分もついこの間までそうして振る舞い、働いていたのだけれど。
あ、それから携帯電話の価格について。新規購入で、端末の料金と月々の使用料を両方、割賦で支払う計画を勧められ、まま、大した金額の準備もなかったので、勧められるがままに端末の受け渡しまで、やたらと多い書類、契約書のたぐいを読み、読まされ、署名させられ、最終的には、良くわからないまま、商品が手元にやってくる。
端末本体の定価は決まっているようだが、月々の使用料と併せて割賦にすると、購入する携帯のキャリアが月々いくらずつ毎月負担してくれるため、合計で月々いくらいくらになります、と。割賦にすると何故キャリアが消費者のコストを負担してくれるのかさっぱりわからなくなったところで、思考停止。エポケー?
数日経って分ったのは、「携帯電話の価格はない」ということ。もう、「この商品のかちはこれです」と言い切れないのだ。どちらかというと日々変化し続けているという感じだろうか。そうするともはやそれは株価と同じで、金融の世界と同じってこと?グローバリズムの浸透ってそういうこと?そうすると、消費者、お客さんとしての振る舞いをしているつもりが、目の前で刻々と変化し続ける商品を各々適切なタイミングと価格を判断して、まるで市場のセリで卸売店のおじさんたちのように毎日振舞わされているということだろか。つまり消費者であり、流通でもあるという存在として日々活動しなければ生きていけなくなっているのでは。
いやいやこんな感想はそもそも分りきったことだと言われればそれまでだけれど、今座っている近所のマクドナルドのイスから見える光景。改装したばかりの新しい什器、ぱっとみ工夫がほどこされていそうな細かく配置された照明。壁に張り出されるへんてこなアメリカ人の少年と母親の笑顔(50年代かしらん、それこそレボリューショナリー・ロードで描かれた時代)。その笑顔の隣には、「Active」、「enjoy」と大きく書かれた壁紙。文字の背景には、こちらはどうやら現代風の親子が芝生ではしゃぐ様子と、女の子二人が笑顔で肩を組んでいる。ここはGapか?いや、Gapがマクドナルド化している。というかマクドナルドを目標にしているのだ。若くてきれいな母親と幼い子供二人で絶え間なくフライドポテトを食べ続けている様子。そしてやたらと幸せそうな笑顔。そんなすべてがグローバリズムとして、しっかりと確認できるのだ。
そんな確認はとっくにしておかなければならないのかもしれないけれど、失業者になって、三鷹のはずれにあるマクドナルド(隣の店舗は富山県のせんべい屋、さらに隣は辛うじてドメスティックな存在だと思われる生協)が、グローバリズムの窓口、入口、溢れだそうとする裂け目としてしっかりと地域に根付いてしまっているあたりは、改めてぞっとするのであった。