「ベンジャミン・バトン」デヴィッド・フィンチャー

会社をやめてからはやたらと規則正しい生活を送る。サラリーマンとしての労働でいろいろなストレスを溜めている人は世の中にたくさんいるのだけれど、そのストレスによっていかに目の前が見えなくなっているか、メディアを介して伝えられる情報に逐一反応させられることで資本主義に飼い馴らされているのかが、失業者になってようやく実感できる。
土曜日は前日に呑み過ぎたテキーラのせいで、一日中何もできず。ベッドの隣で1人で遊ぶ娘。ごめんなさい。
日曜日は、気がつけばロメール特集最終日の日仏学院へ。最終回の「緑の光線」。以前未だ自宅でシネフィルイマジカが見られたときに見たような記憶があるがさっぱり憶えておらず。VHSに録画してそのまま見た気になっていたのでしょう。カメラの前に写る人物がたまにカメラ目線になり、明かにカメラの存在を意識する箇所がいくつかあるのだけれど、そのまま演技を続けるというかセリフを話し続けると、カメラ目線になっている不自然な登場人物たちも含めてこの映画の中の時間をきちんと生きている気がする。
また、フランス国内のバカンスのための保養地や漁港が遠景で捉えられているシーンは、どうも町全体を演出しているかのような錯覚に陥るほど、気持ち悪いくらい、登場人物の周辺にいる人たちもこの映画の中の時間に溶け込んでいる。
生まれて初めてベッドを購入して、家族で寝てはみたものの、マットレスを床に直に敷いていた時よりも狭く感じ、いやな夢を見た日曜日の夜が明けて本日は、朝からハローワークへ。
前回は勇み足で行き慣れていた新宿のハローワークへ行ってしまった。今日はきちんと三鷹ハローワークへ。
朝からやたら混雑している。1時間半程度の時間をほとんど自分の順番待ちで過ごす。先週購入した平井玄の「千のムジカ」をパラパラ読みながら周りを見渡すと、みなさん真剣な様子。でも何だか失業者も失業者を迎え入れる窓口の職員の方々も両者ともに今現在起こっていること、社会のありよう、様態から目をそらすためだけに言葉をやりとりし、一喜一憂しているようにしか見えなかった。
ハローワークの帰り道、次いでに市政窓口で厚生年金から国民年金への切り替え手続きも済ませる。支払の請求がきても果たして払いにいけるかどうか。。。
午後は、あまりの曇り空に挫けそうな気持を抑えて、「ベンジャミン・バトン」(デヴィッド・フィンチャー)へ。
渋谷のロフトの手前で、地味な映画館という印象しかなかったシネパレスだけれども、本日は夕方の回が満席。
映画はといえば、あらら「ビッグ・フィッシュ」(ティム・バートン)だ。
父と母の違いはあるものの病床に臥す母(父)親が、自らの過去の物語をアメリカの歴史に沿いながら語っていく。「ビッグフィッシュ」の場合は、父親が息子夫婦に直接語りかける形式だったけれど、この映画では、母親が娘に父親の過去に綴られた日記を読ませるというもう一つ捩じれた語りの形式をとりつつも、父親の奇談(片や成長が早いアルバート・フィニー、片や老人から少年へ逆に成長するブラッド・ピッド)、物語の舞台では、さまざまなキャラクター付をされた登場人物(片や巨人やサーカスの一団、ほら吹きにしか見えない詩人、片や雷に7回打たれたと語る老人、アル中の船などなど)、また物語の途中ではフランスが舞台(片や語りとしての現在で、片や過去において)となったりとさまざまな要素が並行的に語れそう。
やたらと長く感じた「ベンジャミン・バトン」の方では、ブラッド・ピッドがケイト・ブランシェットよりも若くなる(成長の方向と増減が逆転する)ときから、別にブラッド・ピッドでなくてもいいじゃん、という気がしてくる。