「レボリューショナリー・ロード」サム・メンデス

10年ぶりに鴨川シーワールドへ。
特急「わかしお」に乗って安房鴨川駅に到着すると、曇天に加えて、今となってはどの地方都市でも見られるような廃れぶり。お目当てのお寿司屋さんでランチをとろうとしたものの定休日のため、駅近くの定食屋で刺身定食と焼き魚定食を注文する。小鉢でついてきたひじきがやたらとうまい。
シーワールドでは、入口近くにいる死んだはずのマンボウが、元気にというかほとんど動かずに未だ生きている。どうやら補充された模様。お目当てのシャチのショータイムまで、娘と遊んでいたら買ったばかりの携帯電話の液晶をさっそく壊す。
10年ぶりのシャチは今見ても興奮する。なんというかあの巨体が大ジャンプをして水しぶきがあがるさまを眺めているだけで、世界がゆっくりと、だけれども確実に揺り動かされている感覚に陥る。
シャチを見た後は、こちらも何年ぶりになるだろうか、ネズミの国、海バージョンへ。
朝から気が重たかったが、いやな予感は的中、舞浜駅周辺の平日とは思えぬ混雑ぶりにただでさえ彫り込まれてしまったおでこと眉間の皺がさらに深くなっていくのを感じる。とにもかくにも有象無象の女子学生がハイテンションで、躁状態で朝からしゃべり続けているのを見ていると、世の中で宣伝されている100年に1度の不況やらは、始めからデマだったのではないかという気がしてくる。
海バージョンはといえば、園内でお酒が呑めるというただ1点のみでしぶしぶ付き合うことを承諾したものの、入ったら入ったで、空間全体の躁状態は断続的に続いていて、気が滅入る。
小さな娘とともに乗った「海底2万マイル」の乗り物の記念に、「買いたいものが見つからない」(じゃあ、買わなきゃいいのに)という妻に、DVDコーナーでぽつんと佇む「海底2万マイル」(リチャード・フライシャー)を渡し、次いでに購入する。
そんなこんなでサラリーマンの労働の何倍も疲れた翌日は、新宿のジムでマシンと水泳をこなしてから、「レボリューショナリー・ロード」(サム・メンデス)。
2時間がやたらと長く感じられる。映画の真ん中あたり、1955年7月という具体的な時が分るカレンダーが写し出されることでこの映画が今から50年も前の話であることが明確に伝えられるが、そんな過去の出来事をどこか人ごとのように過ぎ去った過去のものとしての時間しかこの映画には流れていないように感じた。夫婦の危機だけを見れば、カサヴェテスの「壊れゆく女」や「フェイシズ」を思い出しつつも、カサヴェテスの映画に流れている時間は「過去」を過ぎ去った時間としてではなく、永続的に「現在にも漏れ出している過去」として、「過ぎ去った時間として油断していては足元をすくわれるような過去」として、見ている時間はそのような過去が現在とほぼ同等のものとして時間が流れていたように感じたが、この映画では、悪意に満ちた夫婦関係が、「過ぎ去ったもの」(として勘違いしている)の時間に置かれている。
最後の最後までいやな気持ちになりながら、劇場を後にした。
あ、それから夫婦の危機のなかに、二人もいる子どもと共に画面に納まり、関係しあうシーンがほとんどないところも、気に入らない。どこまでいってもレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレッドの大人の勝手にしか見えなかった。