「チェ・28歳の革命」スティーブン・ソダーバーグ

寒い。自宅の南側から日中、日の光が深くまで差し込む時間が長いため、毎年冬はいわゆる暖房の類は一切使わずに過ごすのだけれど、いよいよ太陽の力だけでは物足りないくらい寒い。けれども家族の暖房ぎらいがあるため、今年の冬も未だ一回も暖房を使っていない。寒くて何もやる気がしない。
土曜日。とにかく首と耳を冷やさないような装備で自転車に乗り、開店すぐのジムへ。ストレッチはきらいだけど、少しずつ柔軟性も高まりつつある。今までおろそかにしていた背筋のトレーニングをがんばる。
マシンのみで早々にジムをあとに、渋谷へ。ツタヤの上で「ミラーズ」(アレクサンドル・アジャ)。
ニューヨーク市警で、どんな事情があったのか同僚を殺めた罪で、警察の職を辞し、心の病を抱えながら、家族とは別居し、妹と暮らす主人公は、新たな仕事として、火災に見舞われたデパートの廃墟で警備員の職にありつく。そのデパートは元病院で、統合失調症の一人の女性が治療のため、監禁され鏡張りの独房で、病の原因らしい負のエネルギーを鏡に吸い込まれていた。そうとは知らずに廃墟の警備を続ける主人公は、警備員の前任の不審な死、警備中に鏡の中で鏡に写る自分が、自分とは異なる行動を起こし、自身のみならず、彼の家族まで鏡の中の存在に命を狙われることになる。
妹がバスルームで、鏡の中の自分に顎を裂かれて殺されるシーンは気持ち悪いし、怖かったけれど、主人公であるキーファー・サザーランドが、鏡の禍の元である女性の存在を突き止め、現在は修道院にいる彼女の元を訪ね、彼の家族のためだけに、再度廃墟の鏡張りの部屋で、病の原因だったらしい負の存在を彼女の身体に閉じ込めなおす、という展開はウソはウソでも解せない。
ある家族が不可思議な出来事、禍に遭遇して、父親が逡巡しながらも家族を守ろうとするアメリカ映画は最近たくさんあるけれど、この映画ではその不可思議な出来事が一つの家族の中だけで完結していて、しかもその原因が奇妙にはっきりしているところは、どうも閉じている感じがして、父親の逡巡、戸惑いも彼独りの小さな世界だけで完結してしまう様子は見るものに彼と彼の家族だけに感情移入させるだけで、ただ映画を見て、筋を追って、そこで起きていることを見届ける、ただそれだけでもうなにもいらない、そんな気がして、あまりのれず。キーファー・サザーランドがいろいろな局面で二呼吸目には大きな声で激昂する一本調子も、気になる。つらくて大変なのは分かるけど、この映画を見る者に彼と彼の家族の悲劇が染み出してこない。
日曜日。早起きして掃除して、新宿で買い物。娘と自分のスニーカーを購入。
月曜日。早起きして掃除の続きをして、自転車で味の素スタジアムへ。ラグビートップリーグサントリー東芝」。今シーズンサントリーに入団したジョージ・グレーガンを生で見たいため、寒いのを我慢してひたすら自転車をこぐ。味の素スタジアムははじめて訪れたけれど、観客席からグラウンドを見下ろす角度が適切なのか、バックスタンドの端でも、ゲームの展開が見やすい。試合はといえば、東芝の圧勝で、むやみにサントリー、というか監督の清宮の肩を持つ妻は途中から試合を見るのを放棄する。ブレイクダウン、ファーストスリー、バックスリーの攻防、全てで優位に立ち続けた東芝は、最終戦三洋電機戦でもこの戦い方をすれば勝利もあるのでは。マン・オブ・ザ・マッチに選ばれた大野均は相変わらずの奮闘ぶりで、ラックで下にあるボールへの働きかけが日本で一番早いのではないかと思うほど、この試合でも素晴らしい活躍をしていた。東芝はディフェンスも良く、センターの富岡をはじめ、速く正確なタックルが要所要所で決まり、危機的状況をほとんど作らなかった。それにしても東芝フォワードがモール、ラック問わず、前にボールを運ぶ力、8人の意志統一は気持ち良いくらい徹底されていた。
会場の隅っこにある駐輪場へ向かう途中、結局試合にはでることのなかったジョージ・グレーガンが息子さんと思われる少年と歩いているのを発見。子どもみたいに興奮して、娘を抱っこしたまま、3人で写真撮影。世界最高のスクラムハーフと呼ばれた彼は、予想以上に小柄で、落ち着き過ぎなぐらい落ち着いていて穏やかな表情で、少し拍子抜けした。
帰宅後、冷え切った身体を風呂で温めてから、吉祥寺バウスへ。「チェ 28歳の革命」(スティーブン・ソダーバーグ)。「ミラーズ」のキーファー・サザーランドの激昂っぷりが気持ち悪くて、彼独り、彼の家族のためだけの闘争の描き方にのれなかったけれど、こちらはキューバ国民のための闘争、革命にも関わらず、ゲバラだけでなく、カストロ、革命の同志たちは、決して激昂したりしない。しかも大笑いもない。笑う表情を捉えるシーンがあってもどちらかというと「微笑」にとどまる。この映画は激しく怒ることも激しく笑うこともしない、小さな怒りと微笑の間にだけ登場人物を捉えたことで、キューバ革命のディテールはさておき、「ミラーズ」のように小さな空間だけで怒り戸惑い、喚いたり、はたまた「世界が静止する日」のように世界全体が惨事に直面しようとしている際に世界中で混乱し、騒いだりという世界の切り取り方ではなく、「世界」のために、「世界」と「自分」の間を「小さな怒り」と「微笑」の間におさめるという切り取り方で作られている。そしてその切り取り方は、キューバ革命の実際、具体的な現実はさておいて、今ここで可能な「革命」のやわらかなイメージを映画を見る者に提示するということに貢献していたと思う。