「チェチェンへ アレクサンドラの旅」アレクサンドル・ソクーロフ

新年早々、ただひたすらへこむしかない出来事が勃発して、実人生のどうでもよさを改めて痛感する。具体的な家族には、もはや救い難いのっぺらとしたゴミみたいな死に向かって流れてゆく時間しか流れていないような気がする。
何を考えても暗くなるばかりなので、日曜日は今年初めてのジムへ。腹直筋を刺激するマシンがやたらとキツイ。胸筋はここ数カ月でみるみる発達してきた。あとは、下半身の筋肉もバランスよく鍛えてゆくことにする。
ジムの後は、ユーロスペースへ。「チェチェンへ アレクサンドラの旅」(アレクサンドル・ソクーロフ)。あ、またもや冒頭の10分で眠ってしまう。ソクーロフの映画ではいつも眠ってしまう記憶があって、この映画でも最初に眠っていた。
画面全体が埃、戦場の砂塵をかぶったような印象で、映画の舞台はチェチェン共和国だと思うけど、ロシアからの砂も混じり、はたまたガザ地区の砂でも、いやまた日本からの砂でもよいけれど、いろいろな砂が混ざり合って境界がまったくなくなってしまった世界が描かれている。境界が溶解してしまった世界でも、そこに存在する人間たちはかろうじて自らのテリトリーとして「テント」を張る。それでもテントの中には外から砂が入り込んできて、そのテリトリーはすぐに外部と溶け合って、あやふやになってしまう。
きっと軍人たちはそんなあやふやな状態のまま一生を終える人たちなのだと思う。そしてそのあやふやな状態は、この映画の画面の色には決して見えることはない具体的な現実にも地続きで、国家でも家族でもなにもかも境界線を引いたり、テリトリーを作ろうとする努力がすべて失敗に終わり続ける私たちの日常そのものなのかもしれない。服装だけが異なるだけで、私たちも軍人たちと同じようにしか生きることができなくなっているのではないか。