「十八歳、海へ」藤田敏八

2008年もおしまい。昨日は朝から「パンチ・ドランク・ラブ」(ポール・トーマス・アンダーソン)をDVDで2回見る。その勢いでアダム・ダンドラー繋がりということで、「50回目のファーストキス」(ピーター・シーガル)もDVDで。
娘と一緒に風呂に入るとき、一通り体を洗って、浴槽に浸かって、風呂場から出るときにも、彼女は「入る」という。どうやら「出る」と「入る」の区別が全くないらしい。「パンチ・ドランク・ラブ」を今回見直してみると、娘とは反対に「出る」という行為の連続で成り立っている映画のように思えてくる。アダム・サンドラーが働く倉庫のようなオフィスからオフィスに面する駐車場から、道路へ。エミリー・ワトソンとのデートの後、レストランから通りに。その後、彼女の家から自宅へ一旦帰ろうとするものの、アパートの出口で管理人に呼び止められ、再び彼女の部屋へ。怪しいテレフォン・セックスをユタ州で営むフィリップ・シーモア・ホフマンのいる家具屋へ殴りこみにいき、二人が睨み合った後、店をあとにする。これらのシーンはすべて、始めにいた場所、空間からその場所の外へ「出る」ところまでをおおよそワンカットで描かれているように感じた。ある場所からある場所へ「入る」のではなく「出る」。「出」続けるために、「出る」という行為を続けていく。なにか特にこれといった目的や着地点を持つこともないのに、上映時間いっぱいしっかりと画面を追い続けることができるこの映画は、目的や終わりへ向かってどこかに「入って」いくことなく、目的や終わりをただひたすら避けるためにのみ「出て」いく。そして「出る」という行為をいかに魅力的に画面に収めていくか。それは、ポール・トーマス・アンダーソンの次の映画「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」でも継続されているような気がした。年明けにもう1度見ようと思います。
自宅を「出た」後は、年内最後のジムへ。スウィミングのみ。年内最終営業日ということで、それなりの混雑。クロールのフォームはあまり改善されなかったけれど、肩の力を抜いてリラックスして泳ぐという心掛けは身に付けられた。
プールを「出た」後は、一昨日に続いてシネマ・ヴェーラへ。「十八歳、海へ」(藤田敏八)と「不良少女 野良猫の性春」(曾根中生)の2本立て。「スケバンマフィア 恥辱」のたくさんの女子高生が造成地で乱闘をするシーンを見たとき「もうすぐ相米慎二だ」と勝手に呟いてしまったけれど、「不良少女 野良猫の性春」の冒頭、主演の片桐夕子が河内から東京は新宿に「出て」きた直後、彼女に近づき、回転すしを奢る男性として登場したのは相米慎二ではないか?あの不精鬚がもじゃもじゃの感じとすしを食いながらタバコを吸うようなどこか落ち着きのない感じはこちらが勝手にイメージしていた相米慎二のイメージぴったりで、少し動揺する。全くの間違いかもしれないけれど、嘘でもいいからあれは相米慎二だったってことにします。
「不良少女 野良猫の性春」で片桐夕子演じる「鳩子」は、河内から新宿へ、新宿に到着したと思ったら、男の家からやくざの事務所へ、また別の男の家へ、そして最後は四国の温泉芸者を経て、関東一円のどさまわりするヌード・ショーありの旅芸人集団へ。彼女もひたすら、どこかに「入る」ことはなく「出る」という行為のための「出る」を続けていたように思う。新宿に到着して最初にだまされた男のいるアパートには、元プロ野球選手と、元イタリアベッドの営業マンで今はおにいさんおねえさんの男性二人も住んでいて、おにいさんおねんさんを交えた4P(?)のシーンはシネスコの画面を使って表現できる猥雑さの極みといっていいほど、見る者の視点は画面のあちらからこちらへこちらからあちらへ、ハードな運動を強いられることになる。
「十八歳、海へ」は森下愛子という女優の存在が、ロマン・ポルノというジャンル、空間に居場所を見つけることができずに、最後まで躊躇しながら映画を進めているように感じる。ジャンルとしての、プログラム・ピクチャーとしてのロマン・ポルノが好きな人にはもしかしたら全く受け入れられないのかもしれない。(彼女はあんまり脱がないし。)
自宅に帰って、「官能のプログラム・ピクチュア」(フィルムアート社)をめくってみると、巻末に山根貞男が、こんなことを書いているのを見つけた。(11年以上、500本以上のロマン・ポルノが既に公開され、そしてもうすぐ終焉を迎えようとしていた83年において)

 その表現としての具体的なあり方において、ロマン・ポルノは、自らのポルノとしての擬似性をつねに活用してきた。なま身の肉体が虚構をどう生きるかのドラマというときの、その虚構の端的な材料として、擬似性をうまく利用する、といったふうにである。じっさい、ロマン・ポルノの歴史とは、どのようにウソをよりホントに見せかけるかの歴史であり、ホンモノの肉体がウソのセックスをどう生きるのかのドラマの歴史であり、そのことをとおして肉体のアクションをどう表現するかの歴史でありつづけてきた。


この本のすごいところは、11年以上の期間の500本以上の映画すべてに対して、小さいけれども解説、批評をつけて、かつそれらを最後に山根さんが「歴史」として捉えようとしているそのミクロの視点とマクロの視点が一冊に収まっている点だと思う。

「十八歳、海へ」の森下愛子の所在なさげな表情、存在そのものは、「どのようにウソをホントに見せかけるかの歴史」であったロマン・ポルノにおいて、始めは冗談(ウソ)として行っていた永島敏行との無理心中が、繰り返されるなかで、映画の最後でウソとしての無理心中がホントとしての無理心中(死)に至ってしまうことによって、この映画が公開された79年当時、みんながもうすぐ終わり(死)を意識していたけれど、まだ先のことだと感じていた矢先(事実、ロマン・ポルノ自体は80年代初頭まで続く)、いちはやくその終わり(死)を提示してしまうために必要な存在だったのではないだろうか。
「野良猫」であり「鳩子」である片桐夕子とは全くことなるタイプの女性として森下愛子が、永島敏行からの愛撫にもほとんど感じる表情を見せず、どこか遠くを見つめ続けるだけの彼女の視線の向こうには、藤田敏八も見ていたであろう、ロマン・ポルノの死が、プログラム・ピクチュアの死があったのかもしれない。
そう考えると、「十八歳、海へ」は「自らのポルノとしての擬似性」にはっきりと限界を感じていたロマン・ポルノに自ら死を宣告していた作品といえるのかもしれない。

あ、ちなみに「官能のプログラム・ピクチュア」のなかで、「タイトルに現れた女性の職業」(71年11月~82年末まで)といった小ネタもあって、順位は以下のとおり、
 1位「団地妻」(20)、2位「女子大生」(16)、3位「女高生」(13)、4位「女教師」(12)、「妻」(12)、6位「OL」(9)、7位「海女」(8)、8位「看護婦」(7)、9位「おさな妻」(5)、10位「娼婦」(4)
団地妻って、そんなにそそられてたのでしょうか。

ただひたすら、世の中の男性の可能性を見限ってしまおうと、女性に期待してばかりの1年の最後に、ロマン・ポルノを見て、そのまま家に帰ろうと思っていたけれど、シネマ・ヴェーラと同じビルの2Fで「女バス」(ウォード・セリル)を見てしまった。

また泣きました。やっぱり世界は女性、いや「女バス」で生き抜くことができるのですね。シアトルにあるルーズベルト高校の女子バスケットチームの7年間を追ったドキュメンタリーですけど、アメリカで生きるのはしんどそうですが、まだ捨てたもんじゃないと思いました。大学で教員をしながら高校のバスケットチームのヘッドコーチとして、毎年明確なビジョン、テーマ、言葉と生徒たちに伝え、それに必死に応える彼女たち。バスケ部の7年間を追いかける合い間には、アメリカのしんどい現実の一部が挿入されたりしながらも、ヘッドコーチと生徒たちのコミュニケーションは、高校3年間、もっというと「人生すべて」がウソかもしれないけれど、「狼の群れ」や「ライオンの誇り」といったウソの言葉を使って、州大会の優勝へ向けて目の前の現実をホントに見せていく。なかでも試合中に監督が「相手の目を見ろ」、「敵の目を見ろ、怯えているぞ」という指示を出すシーンでは、ほとんど舞台の演出家のようにも見え、ウソを真剣にホントとして演じ切るための実践がそこにはあったような気がする。

最後の最後も「女性」が世界を動かしていく映画を見ることができた。女性アスリートの活躍、メディアへの露出が目だった2008年は、世間的にはくらーいニュースばかりみたいだけれど、まんざら捨てたもんでもない1年だったように思う。