「ワールド・オブ・ライズ」リドリー・スコット

昨日は祝日ということで、大学時代の友人が自宅に遊びにくる。意識したことはないけれど、世間的には就職氷河期に大学を卒業したといわれる世代なのか、友人の転職歴がはんぱではない。今年の夏にようやく正社員として仕事を得たらしいが、仕事内容がよくわからないし、やたらと忙しそうだし、理不尽そうだしで、今回の職場もすぐに離れるかもしれない。とにもかくにも社会全体の流動性が高まり過ぎて、1年も会わないともはや別の世界に住んでいる人のように感じられる。何か助けてあげられるようなこともある気がするけれど、でもやっぱり何もできないよなあという結論に至り、結局のところ、目の前が真っ暗で足元は泥濘の中を、毎日手探りで前に進んでいかなければ、1年後に今日のように再会することすら危うい、そんなバラバラの人間関係が家族の一歩外を出たら、だだっぴろく広がっている世界なのだ。
先週末の暖かさが嘘のような寒さのなか、妻と歓談を続ける友人と別れ、いつものように吉祥寺へ。
ワールド・オブ・ライズ」(リドリー・スコット)。原題は「body of lies」。誰が本当のことを云っているのか、誰の命令、指示が本当なのか。この映画では、誰もが直近の行動を起こすために指示し、指示され続けながら生きていく人間たちが、国籍や組織、地位や立場を問わず溢れている。
たまたま会社の行き帰りの電車のなかでパラパラしていたジャック・デリダの「言葉にのって」の中で、こんな一節がある。(「政治における虚言について」というセクションでインタビューアーにこたえるデリダの言葉として)

 私が証言するときは、法廷でも日常生活でも、私は真実を言うことを約束します。したがって、まずもって誠実と真実を区別しておかなければなりません。私が嘘をつくとき、必ずしも私は偽りを言っているとはかぎりません。嘘をつかずに偽りを言うこともできるのです。標準的な例はこうです。フロイトは『機知』の中で、しばしばラカンによって引用される、次のようなユダヤ人の話を語っています。ある人がもう1人に「ぼくはクラクフに行くところだ」と言ったとします。それは真実です。彼は本当のことを語っています。しかし相手は、彼が嘘をついているのではないかと疑って、彼に言います。「でもなぜきみはクラクフに行くのに、わざわざぼくにクラクフに行くと言うのか。きみがワルシャワに行くとぼくに思わせるためなのか」。別な言い方をすれば、これは、誰かが本当のことを言いながら嘘をつこうとした例とも言えます。このことによって、私たちは真実と誠実、あるいは偽りと嘘つきを区別することができます。

デリダはどうも「真実」と「誠実」や「偽り」と「嘘つき」を区別しているようなのだけれど、この映画を見る限り、それぞれの区別はもはや無効となり、「真実」がそのまま「誠実」になりうるし、「偽り」がそのまま「嘘つき」になってしまうような言動に満ち溢れた世界が描かれていたと思う。人々は既に何かを発話、言明し、行動する際、それが「真実」なのか「誠実」なのか、はたまたそれが「偽り」なのか「嘘つき」なのかを自らも、そしてその言明は行動を受け入れる他者すらも判断する余地なく、ただ発言し、振舞う、という何とも狭苦しい世界でしか生きることができなくなっているのではないか。そんな誰も信じられなくなるような暗い気持ちになりながら、ジムに向かうためにとぼとぼと電車に乗った。
どうでもいいけれど、ラッセル・クロウは井上順に似ていると思う。この映画ではそれほどでもなかったけれど、いずれもロン・ハワードの「ビューティフル・マインド」や「シンデレラマン」のときの彼は井上順に似ていると思う。どうでもいいけれど。