「ブロークン・イングリッシュ」ゾエ・カサヴェテス

今週一週間、これまであまり聞いていなかったキンクスの「Give The People What They Want」(1981)をずっと聞き続けていた。その他は何を聞いてもしっくりこない日々で、80年代に入ってからのキンクスのどこに惹かれているのかよく分からないけれど、ついでに「State Of Confusion」(1983)も買ってみた。
土曜日はいつものジムの前に、恵比寿ガーデンシネマで「ブロークン・イングリッシュ」(ゾエ・カサヴェテス)。「希薄」な映画に見えた。パーカー・ポージーが男性とうまく恋愛に至れず、孤独を感じながらも、親友の女性とは信頼関係に結ばれている、と一見感じられるけれど、実は、その親友の女性との関係すら、結局のところ、すれ違い、理解し合えず、分かり合えないものなのかもしれない、という点がこの映画全体を「希薄」なものにしているのだと感じた。そして多分、その「希薄」な印象はこの映画を蔑む形容詞ではなく、どちらかというと、我々が生きる現在が「希薄」なのだ、ということを改めて感じ直させてくれる勇気のある映画に対する形容詞として使ってみたい。
映画俳優や母が紹介してくれた男性との恋は始まりから終わりが訪れ、終わらない恋の始まりかの相手かと思えたメルヴィル・プポーはあっという間にパリへ戻ってしまう。それでも彼を捜しに親友とニューヨークからパリ向かう。ニューヨークの風景からパリへと移る唐突さ。パリに到着はするが、彼メルヴィル・プポーの所在は掴めず、親友はアメリカへ戻ってしまう。一人パリに残ったパーカー・ポージーアメリカへ戻らなければならなくなった時、地下鉄車内で彼と偶然出会う。空港に向かうはずだった彼女は地下鉄から連れ出され、カフェでビールを飲む。そこでもようやく終わらない恋の始まりを予感させたところで、突然映画は終わる。
画面に映し出される二人の人物は、関係性が始まろうとする時に引きはがされ、いつでも何かが始まることはない。ただ次の始まりに向けて場所が変わり、時間が経過する。逆光ぎみの光や、オーバーぎみの露出で多くのシーンが撮られているこの映画は、そんな何も始まらない場所に留まり続けるかのように、晴れているシーンでも逆に雨のシーンでもいつでも「曇り」の天気模様として画面が作られている。そのことも「希薄」な印象を感じた原因かもしれないけれど、そうするとその「希薄」さは「曇り」の天気模様のことで、「曇り」とは「晴れ」でも「雨」でもない中途半端な状態、つまり何かが始まりそうだけど、何も始まらないという、もしかしたら残酷な時間と場所。「曇り」が続くこの映画はそんな時間と場所に留まり続けることに挑戦しているのかもしれない。だからこそ、カフェでビールを飲むシーンで、メルヴィル・プポーからパリに残るのか否かを問われた彼女が映し出されたとき、まさにこれから何かを発しようとしたその瞬間に映画が終わらなければならなかったのではないか。さらにそれは、これから聞こうとしている「State Of Confusion」というタイトルにも繋がっていくような気がしてきたところで、今日の妄想は終わりそうなのだった。