「デス・レース」ポール・W・S・アンダーソン

2週間連続の神戸出張をやり過ごし、金曜日は森桃子さんのお芝居「まっかっか」(Plan B)。丸ノ内線沿線に住んでいたことがあるけれど、中野富士見町に降りるのは初めて。駅周辺は閑散としていて、歩き始めるとすぐに住宅街が見えてくる。会場に到着しておしっこをして、タバコを一本吸っていたら、すぐにお芝居の始まり。当初、「二人芝居」と聞いていたのが、どうやら「一人芝居」に変更になった様子。桃子さんのお芝居とジム・オルークの即興演奏で約50分の時間が作られる。桃子さんが身体を動かすなかで、今回のお芝居が始めは「三人芝居」を予定していた後に、「二人芝居」に変更になり、更に「一人芝居」で本番を迎えることになった経緯が自己言及的に明らかにされていく。「お芝居には物語が必要とされているけれど何も思い浮かばない」。お芝居は始めから桃子さんの「告白」から始まる。今回の演目が「三人芝居」から「二人芝居」、そして「一人芝居」へと至った一連の流れ、桃子さんを取り巻く人たちとの関係性が身体と言葉で表明された後、畳三畳分ほどの舞台を動きまわりながら、「物語」は桃子さん自身のこれまでのお芝居のアイディア、更には日記的、自伝的な日常、過去の生のエピソードがランダムに続き、ジム・オルークの即興演奏が、葬儀の坊主のそれを思わせる佇まいと音で、桃子さんの身体の動きと言葉に章立てらしき区切りとタイミングを与えいく。
ライブでお芝居を見る経験は30歳にして始めてだったけれど、舞台に桃子さんが現れたときの緊張感、フィクショナルな存在として舞台に立つ彼女を見る視線の強さは独りよがりにスクリーンの見つめ続ける映画を見るという体験とは全く異なるものだと感じる。当り前か。
「P.S.アイラブユー」は、パートナーが死んでもなお、「二人でいる」ということのしんどさ、面倒くささ、不完全さが映画全体を貫き通していると思いましたが、桃子さんの「一人芝居」は、「一人でいること」すらしんどいし、面倒だし、「二人芝居」や「三人芝居」を欲しつつも「一人芝居」に耐えようとする強い意志表明として、勇気として、なんだかどう考えてもお先真っ暗なこの時代に生きる一人として、自分自身も「一人芝居」から始めてみよう、そんなきっかけを与えてくれるもののように感じられました。
いつものように娘を保育園に預けるため、早起きの土曜日。その足でジムへ行ってマシンのみ。中学生の時に骨折した左腕の骨が治ってから初めて痛み出す。手首にあまり力が入らないため、チェスト・プレスの際には、無駄な力を入れずに胸の筋肉に丁寧に負荷をかけることができる。
ジムを終えて、渋谷はシネフロントへ。「デス・レース」(ポール・W・S・アンダーソン)。2012年アメリカ経済が崩壊した。というあっさりした設定で、ターミナル島という凶悪犯罪者が集められた島で行われる殺人込みのカーレース。カーペンターの「エスケープ・フロム・LA」のような設定だと思ったら、主演はジェイソン・ステイサム。「ゴースト・オブ・マーズ」にも見えてくる。この映画でもプロデューサーを努めたロジャー・コーマンがその昔「デスレース2000」という名の映画を作り、そのリメイクとして制作されたらしい。webで情報を見る限り、「デス・レース2000」の方はもっと過激な設定(レース中にレーサー以外の人間を轢き殺す?)で、シルベスタ・スタローンも出演している模様。
2008年版の「デス・レース」はといえば、オリビエ・アサイヤスの「デーモン・ラバー」の世界を想起させる衛星中継で有料放送として、全世界で観賞される殺人ショーという設定になっている。冒頭でジェイソン・ステイサムの置かれていた境遇、状況、妻の殺人という冤罪を説明する描写は極端に少なく、映画は凶悪犯が集う島のレース、そして島からの脱出までだけをコンパクトに語る。2012年のアメリカ経済崩壊がまんざらフィクションでもなさそうな2008年の現実を見ていると、この映画で描かれるような有料放送も、あと4年後には、実際にあり得そうな気がしてくるけれど、気がかりなのは、「デス・レース」では、その有料放送を消費する観衆、一般大衆が全く登場しない、ということ。「デーモン・ラバー」では、映画の最後、アメリカ人らしき少年が父親のクレジットカードを利用して、ユーザー参加型のSMサイトにアクセスする様が写されていたように、「見られる側」と「見る側」の両方の視点が存在していた。一方「デス・レース」には「見られる側」しか映画の中にはなく、「見る側」の存在は一切登場しない。「デーモン・ラバー」のアメリカ人の少年がwebへアクセスするシーンは、そのシーンの前まで語られていた物語が突然webサイト、PCのモニターの中に閉じ込め、映画というフィクションを見る者にスクリーンの更に向こう側に遮蔽物を挿入することで、幾重にも介在するメディアに頼ってしかこの社会や現実へアクセスが難しくなっている現代を浮かび上がらせていたような気がする。
かといって、それでは「デス・レース」が現在の世界を投影することに失敗しているかというとそうでもない。あえて「見る側」の存在を登場させず、「見られる側」のみで物語を押し通すことで、「見る側」は「この映画を見る我々」ではないか、という「デーモン・ラバー」のアメリカ人の少年の役を、私たち観客が担わされているという感覚をこの映画を見る者に与えることで、「デーモン・ラバー」では、あの少年がいたからこそ、残酷な現実をモニターを介して見ることができたけれど、「デス・レース」ではモニターを介さずに直接映画に向き合うことが促され、しかもその映画はといえば、どうもいよいよ現実味を帯びた世界だとすると、スクリーン一枚では耐えられないような過酷な世界に対峙させられる気がして、期せずしてこの映画を見たことを忘れたくなってきた。
映画館を出ると、渋谷のスクランブル交差点。この交差点には、よく見ると訪れるたびに増えていると思われる大型液晶ディスプレイが、交差点を歩く人々の方を向いている。交差点を渡り切り、あちらこちらにある液晶を見上げていると、これらのディスプレイの媒介によってなんとか消費し、受け入れられる中和された現実を見せられているような気がしてくる。逆に、これらのディスプレイがなければもはや、消費することも、受け入れることもできないような、明日から生きていく気すら起きないような社会へと実際はどんどん悪化しているのではないか、そんな暗い気持ちで、快晴の土曜日、相変わらず噎せ返るほどいる若者たちの間をすり抜け、急いで電車に飛び乗った。