シネマとグラフ

たまたまたふらりと入った吉祥寺の本屋になぜかロベール・ブレッソンの「シネマトグラフ覚書」があったので、買う。

 鉄のごとき掟を鋳造して自分に課すこと。たとえそれに従うためであれ、あるいはどうにか苦労してそれに背くためであれ。

 新しさ、それは独創性のことでもなく現代性のことでもない。

 ドストエフスキーが独創的なのはとりわけ構成においてであるとプルーストは言っている。同じように(ただしドストエフスキーとは丸っきり異なったかたちでだが)、人はプルーストにおいても、ちょうど海洋にあるような様々な海流、様々な反流の渦巻く、驚くほど複雑で凝集した、純粋に内的な総体を見出すのであり、こうしたものの等価物は映画にとってもふさわしいものたりうるだろう。

 自分が何を捕まえようとしているかについては無知であれ、ちょうど釣竿の先に何がかかってくるか自分でも見当がつかない釣人と同様に(どこでもない場所から出現する魚。)


ただいま、午後4時25分。川崎。どの席からも窓の外の風景が見づらい喫茶店で下っ腹に疲労と倦怠を抱えながら隣に座っているやたらと化粧の濃い女の子二人組が二人とも同じ方向を向いて座りながら、1人は携帯電話でうつむきながら話をし、もう1人はメールをチェックしているのだろうか、携帯の液晶から視線を放さないのが見える。川崎の銀柳街という名前の商店街にあるこの喫茶店ソニック・ユースのMurrayStreatを聞いているとはるか昔から川崎に自分が住んでいたかのような錯覚に囚われてしまった。