コッポラの胡蝶の夢

昨日見た「ハンコック」といい、「ダークナイト」といい、アメリカ映画は2010年代をもうすぐ迎えようとしているタイミングでそんなにスーパーヒーローを見せたいのかしらと思っていたら、「コッポラの胡蝶の夢」。絶望で自殺をしようとしていた言語学者の老人が雷に打たれて、若さと超人的な記憶力を手に入れてしまう、そんなスーパーヒーローがここにも。いやいやコッポラの方はといえば、「ハンコック」も「ダークナイト」よりも自由に、ストイックに世界と向き合って絞り出された映画とでもいえばいいでしょうか。ちょうど2時間くらいの上映時間、集中力を強いてきて、映画を見終わった後には、お腹いっぱい、物理的に身体の中に画面と画面が溜まっているような感覚。物語は支離滅裂といえば始めから支離滅裂。だけれどもこの映画の場合は近年のアメリカ映画に見られる「前提」も「説明」もない物語の支離滅裂さではなく、あくまでも「前提」と「説明」があった上での支離滅裂さとでもいえばいいでしょうか。映画の自由は、自由の映画は「前提」と「説明」に納得させられた(騙された)上に、更に物語の支離滅裂さにも納得させられて(騙されて)しまう、という制作者(送り手)と映画を見る側(受け手)の一方通行なんだか双方向なんだか良くわからなくなった瞬間に感じることができるのかもしれません。
アメリカ大統領選挙共和党の副大統領候補は元(?)アラスカ知事らしい。「イントゥ・ザ・ワイルド」でエミール・ハーシュが希望に限りなく近い絶望と共に死んでいったあの森や湖や川をかかえる大地から副大統領候補が出た。エミール・ハーシュがアラスカに辿り着くまでになぞった90年代初頭でもかろうじて残っていたかもしれないアメリカ各地で夢想することができた希望や未来をすべて受け止めたかもしれないアラスカから、彼が大きなリュックに溜めこんだ希望を一切無視しているみたいな顔で、無視しているみたいな家族を引き連れて、マケイン大統領候補とテレビに映っている画面を見ると、「もう2度とアラスカに戻るなよ」とか、勝手にアラスカびいきになってきて、今日も酒を飲んで勝手に寝てしまおうと思うのであった。