アメリカの友人の夜

昨日はアテネフランセからジムに向かい、体調が絶不調なりに筋トレと水泳をこなす。クロールのフォームがどんどん崩れているような気がする。いつも上級者の泳ぎを見てばかりいたけれど、そろそろ自分のフォームを他人に見てもらいたい。多分、水中での体全体の姿勢が水平を意識しすぎて水平になっていない。伸びを意識しすぎて身体が「反って」しまっているため、抵抗を受けていると予想される。
その後、いったん帰宅してからバウスでアサイヤスに関わるオールナイト。今度は黒沢清青山真治トークがあった後、「アメリカの友人」(ヴェンダース)、「レイクサイドマーダーケース」(青山真治)、「ドッペルゲンガー」(黒沢清)の3本立て。冒頭、boid樋口さんから「アメリカの友人として」今、アメリカ以外の国で映画を撮る、ということがどういうことか、今回特集上映されたアサイヤスの映画たちが示しているし、対談される黒沢清青山真治も日本における「アメリカの友人」として、アメリカ映画を撮ろうとし続けているというコメント。トークでは、現在のアメリカ映画がかつてのそれのようにある主人公がいて、明確な物語が進行していく、というものではなく、「パイレーツ・オブ・カリビアン」のような商業的なヒット作でさえ、それとなく主人公はいるものの、誰が主人公であってもよいような曖昧さ、そして物語の分らなさが顕著になっている、とある種の傾向について話がされる。「ダークナイト」、「ハプニング」、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」などが、最近の例としても挙げられ、とにかくアメリカ映画が、アメリカ映画の物語が、「この映画はこれこれこういう物語である」という形では認識できなくなってきているという。
そこで、「アメリカの友人」と「レイクサイドマーダーケース」と「ドッペルゲンガー」を見ると、物語は異なるものの、映画のなかの人物たちは、「希望がなくなってしまうことが唯一の希望」ということを実感として知ってしまっている映画たちのように感じられた。こう書いてしまうと、それでも希望が残っているように思えるけれど、どうもそうではなく、ただひたすら途方に暮れてしまう、途方に暮れた後は、いままで見ようとしたことのない地点へ、いままで焦点を合わせたことのない地点へ焦点を合わせて、前に歩きだしてみる、そんなことしか思いつかない、そんな場所に立ってしまうことだ。それぞれの映画の最後。サミュエル・フラーが道路の先に片目で見据えた場所、湖の底に沈んでいる死体が腐敗し骨だけとなった未来、身の回りの事象すべてを捨てて、ただ二人で手を繋ぎ歩きながら見た荒野の先。焦点を合わせたことのない場所に焦点を合わせてみること。いや、合わせざるを得なくなる状況に追い込まれること。そこからしか全ては始まらない。そんな妄想をお腹いっぱいに溜めこんで、早朝の吉祥寺サンロードを歩いてみた。