私が存在しない日々

くたくたに疲れた週末だからといって寝坊はせずに、早起きしてジムに行こうと思っていたが、案の定早起きはできず。お昼前に友人と待ち合わせをしている渋谷へ急ぐ。宮益坂上にある澤乃井でうどんを。たぬきうどん定食で、うどんと炊き込みごはんのセット。久し振りに体調が悪いことに徐々に気が付き始めるが、無理やりすべての麺と汁とご飯を食す。若者である健ちゃんが逆にご飯を残す。タバコやめたらいいのに。渋谷から神保町に移動して、安くて静かな喫茶店で、健ちゃんの過去の短編作品をノートPCで鑑賞。静かな店内でイヤホンで音声を確認しながら見る。どの作品も適度な諦めと適度な愛に裏付けられたユーモアに満ちている。でもこれが健ちゃんの「誠実さ」なのでしょう。でももう少し長い時間の作品を見てみたいです。そうこうしているうちにアテネに行く時間。小雨の降るなか、途中女坂を歩いて向かう。ジャン=シャルル・フィトゥッシという監督の「私が存在しない日々」。ビデオ上映で、英語字幕。徐々に身体に浸みわたる疲労感で途中何度も眠ってしまう。物語を追うことも諦め、ショットを1つずつじっくり見つめることに専念する。ストローブ=ユイレの助監督をしていたという監督は、カメラを向けるフランスの景色の厳格な切り取り方、じっくりと粘りけのある移動ショットが、ストローブ=ユイレのそれを思わせる。それにしても、カット尻が異様に長いカット(ショット)が多かった。適切なタイミングでカットされたショットなどもはや存在しない、というか適切なタイミングが見つからないままカットをかけるところからしか映画づくりはもはや始まらないということなのか。はたまた、映画を見る者がその先を見ることなどなかったはずの、「出来事」や「アクション」の終わりのその後を、映画を撮る側も見る側も同時に見詰め始めなければならない、ということなのか。歴史からの断絶が絶え間なく続くことでかろうじて「前進」している気になれる現在においては、フィトゥッシ監督の異様に長いカット尻の「尻」の時間に目を見開き、耳を澄ますことで、歴史を現在に呼び戻す契機となるのかもしれない。