分かってるのか?

QuickJapanをはじめて購入する。いつも立読みで済ませて、レジに持って行く行動までは取れなかった。
劇団ひとりのインタビューとNHK教育テレビが特集されている。
佐々木敦の連載を読み進め、最後にこんなことが書かれていた。
 
何かを伝えられる人にしか伝えようとせず、分かってもらえる人にしか伝えようとしていないのではないか。

誌面の内容としては、実践的な「運動」に対する懐疑、それも世代間の意識の違い、背景の違いから、全ての運動はつまるところ「表現」ではないかという疑問が捩れた感情、感覚とともに表出されているもの。
最後に書かれていた内容と書いたけど、実は上の内容自体は前回執筆されたものの最後に書かれたものの自らの引用らしいので、前後の文脈を全く知らない。
だけど、一日中「分かってもらえる人にしか伝えようとしない」ということを考えていた。
分かってもらえない人に何かを伝えることはしんどいけれど、分かってもらえる人にしか伝えようとしないということにも根本的な疑問を感じるし、かといって自らは分かってもらえない人に対して積極的にコミュニケーションを取ろうと努め、コトバの工夫やらをしているかというと全くしていないのが実際で。
例えば人が一生を生きて行く時に(一生を生きる?)、それぞれ必要な他人、他者、自分以外の人で必要な人数って異なるとすると、分かってもらえる人とだけコミュニケーションを取り、一生をかけて分かってもらえる他人、他者、自分以外の人の「数」を増やすことをして行けばよいきもしてくるのだけれど。。。
そこにはどうしても、拭い去れない疑義があって、そもそも「分かってもらえる人」って誰なのか?、あくまでも「分かってもらえる人」として自らが認識しているだけで、「分かり合えている気がしている」という何らかの錯覚、勘違いが含まれているはずで、そう考えると、分かってもらえる人にしか伝えようとしていないという状況自体も怪しくなってくる。