鏡の女たち

 坂口安吾田中小実昌旅行記を書いている、九州のある島に両親の生まれ故郷を持つ私は、高校生の頃、一人でその島へ帰省をしたことがある。なぜ、自分が、その島から遠く離れた場所で、生きているのか、そんな青臭い衝動から実行に至った旅だった。自らのアイデンティティとやらを探しに行ってやろうではないか、と。
 誰が訪れようと一目で過疎と分かるその村を一人で歩いてみた。海と山とに挟まれた、車一台走っていない国道を歩きながら、はっきりと分かった。この土地に、自分のアイデンティティと呼ばれる様なものは何もない。自らのルーツも、両親の血の匂いも、自らとその島との繋がりも、もしかしたらあるかもしれないと予想していた懐かしさも、何もなかった。より正確に言えば、その海辺の村は、私にとって、最も疎遠で、両親と住んでいる自宅のある土地にいる時よりも、私に関係のありそうなものが、全くなかった。
 祖父には戦争があった。父には戦後の高度成長に伴う集団就職、都市への移住があった。そして自分には、どちらもない。
 
 祖父(母)、父(母)、孫という3世代の連なりで、自己がどこに位置していようとも、「孫」としての自己、自意識があるとするならば、「鏡の女たち」で語られた物語、見ることに費やした時間は、そんな「孫」の視点を通して、かろうじて触知できるものとして、先行世代の歴史、経験を現在にも確実に繋がっている「痕」としてはっきりと浮かび上がらせてくれた。 
 アメリカに留学していた美和の娘、夏来は帰国し、祖母と孫は、二人の間を繋ぐであろう美和の存在の登場をきっかけに、「確かな事」と「不確かな事」との間で揺れはじめる。それは最も「確かな事」を目の前にした瞬間に、「確かな事」が「不確かな事」へと傾きはじめるその時を避けるかのように。
 ティーカップについた口紅を親指で拭き取るという愛の仕草を美和が認める。美和自身も、昔、母のその仕草を真似していた。愛は、間違いなく隣に座る女は娘の美和である事を確信するが、それでも尚「不確かな事」が二人の間にまとわりついているかのように、娘に向かって敬語で話を続ける。
 美和は愛の感じている「不確かさ」に嫌悪を示し、大学病院に行って、DNA鑑定をする事によって、実の親子である事を確かめるよう訴える。しかし、愛はDNA鑑定を拒み続ける。
 母子手帳という確かな証拠があり、間違いなく実の親子であることが確認されている美和と夏来の関係も、美和が実の母親であったとしてもこれまでそうしてきたように祖母である愛しか母親として認めないという態度を変えようとはしない夏来によって他人行儀に付き合う事しかできていない。
 ある日、夏来は自らのアイデンティティを探しに、初めて訪れる事になる祖母の故郷、広島へ愛と美和を連れて旅にでる。広島に到着した3人は滞在するホテルのフロントで別々に記帳し、別々の部屋へ泊まる。愛と夏来と共に川瀬美和という姓名をフロントで記す時、3人はそれぞれのアイデンティティを広島で確認する事ができたかのように見える。ところが、美和が生まれたという大学病院で、原爆投下後夥しい数の死体が浮かんでいた川辺で、愛が美和と夏来に語って聞かせる愛の物語には、美和も夏来も巻き込まれざるを得ない、「あの夏、広島」が存在する。巻き込まれざるを得ないというのは、祖母と母と孫という場所に、愛、美和、夏来という3人のうち誰がどの場所にも入ってしまい、愛が祖母であり、母であり、孫でもあるという事だ。「あの夏、広島」で、空襲警報がなり、逃げまどう愛をアメリカ人捕虜の通訳官をしている男が防空壕に匿う。その後被爆する男と愛との間に美和が生まれる。男は、数年後死亡し、再婚相手である川瀬という名字を持つ新しい父とそりが合わない美和は失踪する。夏来を生む直前横浜の病院で姿を見せたその後、再び失踪する。愛が語る物語には、ホテルのフロントで3人それぞれが確認できたような、別々のアイデンティティなどない。
 広島から帰京した後、愛は美和に対して養子になるよう申し入れる。DNA鑑定をして、実の親子であることを確認するのではなく、あくまでも他人同士の親子として、付き合いを始める事を選ぶ。そうする事によって、実の親子であるという「確かな事」が「確か」すぎるために、すぐに「不確かさ」へ転落してしまわずに、これまでも自らを取り巻いていた「不確かさ」の中で、更新され続ける親子として生きる決意をする。しかし、その後美和は3度目の失踪をする。母子手帳を携帯して。
 再び、祖母と孫、愛と夏来だけになった自宅の和室で、障子越しに西日が射し込む。その西日を見て女の血のであると愛は言う。隣に座る夏来はその時気が付く。広島にも、自分自身の中にも探していたものはない。ただし、今この瞬間に部屋に入り込む西日が女の血でもあるという「確かな事」がある。その「確かさ」は「不確かさ」の反対の意味としてではない「確かさ」。そしてこの「確かさ」は夏来に次の事を気付かせてくれる。
 「これから来るであろう今年の夏」は確かに、「あの夏、広島」でもあるのだ。自らのルーツを探しに行った広島では何も見つけられない。しかし、祖母とともにあるこの自宅の和室に差し込む西日に夏来の血も流れている。