武蔵野夫人であること

昨年から続く謎の微熱がようやくおさまる。近所の比較的大きな病院に行ったところ、髄膜炎を見逃したときと同じで、「わかりません」という診断。処方される薬はといえば、いつもと同じで、もういい加減うんざりして、薬局で薬をだしてもらうのもやめることにする。

油断してると自意識や、自己や、感情や、感傷にだまされそうになるので、何年ぶりかにスティーブ・ブシェーミの「トゥリーズ・ラウンジ」をVHSで。これといって理由は判明しないけれど、ブシェーミの顔が見たくなったため。バーボンとビールをセットで頼んで、どっちがチェイサーか分らないくらいの呑み方はこちらもいつも行っているので、見ていて自分も呑みたくたってくる。96年の作品ということすら忘れていて、気がつけば、サミュエル・L・ジャクソンまで登場していた。どうもだらしない人がつくっただらしない人のためのだらしない映画なのかもしれないが、すべてが人ごとではないいような気が。。。
アイスキャンディー売りのトラックに乗って徘徊していると、クロエ・セヴェニーがトラックの後ろから現れるシーンはなかなかドキドキする。彼女が現れてからは彼女の映画のようにしか見えなくなってくる。
自宅に籠っているのもなんなので、劇場にもちらほら。
イエスマン」(ベイトン・リード)、「ワルキューレ」(ブライアン・シンガー)、「ベッドタイム・ストーリー」(アダム・シャンクマン)、「ウォッチメン」(ザック・スナイダー)を吉祥寺で見る。それらを見たら、あまり封切られているアメリカ映画がないことに気が付き、渋谷にて「女であること」(川島雄三)、「武蔵野夫人」(溝口健二)の2本立て。
イエスマン」のゾーイ・デシャネルは「ハプニング」で辛気臭い奥さん役という印象しかなかったが、今回の映画の彼女でいっきに赤マル急上昇。前髪が長めで似合ってるのかよく分らない変な髪型がたまらなく好きになる。4本のアメリカ映画については、ちゃんとコトバをぶつけてみたいけど、また今度。「ベッドタイム・ストーリー」はアダム・サンドラーの作品のなかでいちばんよいかも。

「女であること」、「武蔵野夫人」についても、いかに映画について、何も自分が知らないかを痛感させられるばかりで、見ている間は、自分の感情を忘れる。「女であること」で、森雅之原節子が住む自宅の構造の奇妙さ、「武蔵野夫人」で同じく森雅之と、田中絹代が住む自宅の奔放さ。セットなのかロケセットなのか、いずれの映画も室内のシーンと屋外のシーンにいったりきたりできる自由さ。

いろいろ書かないとと思うけど、時間切れ。

「人ごと」を「人ごと」として、「人ごと」のまま受け入れ、「人ごと」の中でのみ生きること。そのとき、「人ごと」が「自分こと」と一緒になって、自己、や自意識ははじめてどうでもよいものになるのかもしれない。でも、そんなことできるのか?少なくとも「女であること」の久我美子と「武蔵野夫人」の田中絹代はできていたような気がする。