未来を思い出すということ

再び、イヤな予感で目が醒める。微熱が続いていて、節々が痛い。昨年の入院騒ぎの前をどうしても思い出してしまい、正月に引いたおみくじの大吉を恨み始める。けっ。

一昨日はル・シネマで「ダウト」(ジョン・パトリック・シャンリィ)。カトリック学校の教室、廊下、校長室、中庭と教会、といった室内、外界からは隔たった空間でほとんどのシーンが撮られている。また、ただでさえ閉じられた感じが強いうえに、広角レンズを多用して、人物をやたらと近くから大きく写すばかりで、さらに閉じられた感じが強くされている。更に、やたらとセリフが多いことも、この映画を閉じられたものにしている。閉じられた感覚はそのまま「カトリック学校」っていうことを狙っているのであれば、それはそれできちんと作られているような気がしなくもないが。。。フィリップ・シーモア・ホフマンへの疑いをめぐって物語が展開していくわりには、上映時間も含めあまりにも冗長すぎるでしょう。
フィリップ・シーモア・ホフマンがポケットに手を入れて、現代アメリカ映画の中で最高のメタボなお腹を突きだして、しゃべり始める時、やっぱり感情を揺り動かされた。今回は神父の役だったけど、わざと伸ばされた手の爪を男子生徒たちに「長めが好きなんだ」というところなどは、ホントに気持ち悪くて、最高によかった。

渋谷から帰宅途中、ええぃ、呑んだくれてしまえ、ということで、久し振りに下北沢で独り呑み。相変わらず客は自分独りの止まり木でハイペースで呑んでいたら、友人から以下のアドレスが送られてくる。

http://www.youtube.com/watch?v=Em7gC0bq_aM&feature=PlayList&p=565347E1CAB61752&playnext=1&playnext_from=PL&index=55

呑んでいるときは、フラフラでよく分らなかったけれど、帰宅してじっくり見てみたら、最後のルー・リードの顔がなんとも泣けてくる。

そんなこんなで体調も気持ちも絶不調なので、昨日はコッポラの「ペギー・スーの結婚」をビデオで。机の周辺をガサガサ整理していたら、3年前に日仏学院でデプレシャンがセレクトした映画の上映企画チラシが出てきて、その中でデプレシャンがプッシュしていたのでようやく見てみる。

荒唐無稽は設定などどうでもよくて、キャサリンターナーが20年前の夢を見続ける。その夢がこの映画の時間の大部分だけれども、20年前という過去において自分がそれまで生きていたはずの「未来を思い出す」というコトバで言えそうな時制の捩じれは、アメリカ人だけでなく世界中に生きる全ての人々が何度でもやり直せる、生き直せるという夢そのものとして映画を見る人間に強い確信を与えてくれる。そう、「未来を思い出す」。この奇妙な想起の方向こそが、2009年を生きる私たちにとって唯一の希望のようなものとしてこの映画がありありと示してくれている。「コッポラの胡蝶の夢」もこの映画を見てから改めて見ると、違った見え方になるのかもしれない。

そんな妄想をしていたら、「Candy Says」を歌うルー・リードが一緒に歌うアントニーに送る眼差し、視線の豊かさはまさに「未来を思い出している」ようにしか見えなくなってきて、彼の顔と首を張り廻る皺の溝と共に、ルー・リードの生きざまにただただ感動するしかなくなってくる。

あ、どうでもよいけれど、「ペギー・スーの結婚」に出演している若き日のジム・キャリーを見ていると、小島よしおのスタイルは、絶対ジム・キャリーを参照していると思った。どうでもよいけれど。