1977年 ブルーハワイ

「Dead Elvis」の続き。

「ぼくは生身の人間について書いたのではない。エルヴィスの音楽のなかでしゃべっているのが聞こえる人物について書いた。ひとつの観念、たくさんの観念ー自由、限界、危険、権威、セックス、抑圧、若さ、年、伝統、新奇、罪、罪からの逃避ーを擬人化したものについて書いた。そのすべてがそこにあり、聞き取れたからだ。自分の反応をその出所までたどってみて、ぼくはエルヴィスを人間としてではなく(彼の離婚は音楽上、興味がある)、ひとつの力として、一種の必然として理解した。つまり、それはどの文化にも存在している必然性であり、その文化に、その文化自体を表す完璧で、すべてを包括する比喩を作り出せる必然性である。ぼくは確実に言い表せる方法を捜そうと努めたのだが、それは、ハーマン・メルヴィルが『白鯨』でもって創り出そうとしたものだったといえる。しかし結局、そのメルヴィルが試みたところのものになるのはプレスリーであった。」

いろいろ考えると、いま、最も問題なのは、「自分」のことを括弧に入れて何か超越的なもの、抽象的なもの、自分以外のもの、自分の外側のものに正確にコミットしようとすればするほど、卑近な「自分」のことばかりを考えさせられ、また卑小な「自分」のことばかりに気を使い、「自分」から逃れられなくなってしまう、という逆説と矛盾がさまざまな局面で個人に襲いかかってきて、それに対してなす術がない、ということではないか。つまり、身を粉にして働けば働くほど、「自分」のことばかりにかまけてしまい、当初の目的や目標であった何かや誰かのための奉仕、愛情、献身がどんどん不可能になっていってしまう事態そのもののおぞましさ。

前向きなサボータージュのあり方を、も少しみんな、真剣に考えてみてみよいのではないでしょうか。自分はいまのところ、単純なサボタージュしか実現できてませんが。。。