BEST FICTION

昨日は阪本順治の「闇のこどもたち」。月曜日の夜、最終回だというのにものすごい人がシネマライズの入り口に並んでいる。相変わらずむかっ腹の立つもぎりのおねえちゃんの対応、そして意味が分らない指定席、もう少し言うと座席を指定してくるおねえちゃんのその指定の仕方のランダムさ、いい加減さ。コンビニで買ってかばんに忍ばせておいた黒ラベルを一気に飲み干しなんとか落ち着いて映画を見る。
宮崎あおいは、「ユリイカ」、「エリエリ・レマ・サバクタニ」での試練を経て、「サッドヴァケイション」同様、この映画でも、どこかこの世のものとは思えぬ、視力、世界を見通す視力、現実を見通すちからをたった一人身につけている人物として、映画の最後まで、映画内の人物と映画を見る我々にとってのささやかな救いのようなものとして存在している気がした。きっと、この映画を通して見ることができる状況は、タイという国に限らず、これまでも、そしてこれからもあり続けるのかもしれない。さらに言うまでもなく自分自身も、この映画を通して見る状態に対しては、これまでも、そしてこれからも無力であり続けると思う。
自分にたまたま幼い娘がいるから、いたたまれない気持ちになった。だけれでもその気持は、豊原巧輔が宮崎あおいに言っていたように「感情だけ」で生きることになるだろう。新聞記者である彼ですら、「感情と気持ちが一致せずに」生きることしかできない。彼は新聞記者として「見たことを見たままに書く」ことしかできない。仮に一人のタイの子供を臓器提供(=殺人)から救えたとしても、周到に用意された予備のこどもが死ぬに過ぎない。臓器移植にまつわる緻密に組み立てられたシステムは誰も壊すことはできない。
いや、少し考える。たった今、豊原巧輔は「感情と気持ちが一致せずに」生き、「見たことを見たままに書く」ことしかできない、と書いたけれど、現在の日本を生きるわれわれはどうも、「感情と気持ちを一致させ」、「見たことを見ただけにして」(書くことをせず)に生きているのではないか?いや、新聞記者として現われていた豊原巧輔と江口洋介は、これまでもあり、これからもあり続けるであろう「現実」に対して、日本の片隅で生きるちっぽけな自分自身ですら、「新聞記者のように」、「見たことを見たままに書き」、「感情と気持ちは決して一致させず」に生きる、そのことでかろうじて、世界中で起こっている悲劇を含めて、この世界を受け入れる入口にたつことができる、そんなことをこの映画は示してくれているような気がする。ただし、豊原巧輔はその入口に立ったに過ぎず、江口洋介はこの入口に立つこと自体の厳しさに耐えきれず、自ら死を選ぶことになる。
宮崎あおいだけが、どこか到達不可能な地点として、タイの具体的な現実に対峙できる。だけどそれは誰にも達することのできない希望のようなもの、ささやかな明るい未来そのものとして、銃声が響きわたる広場の奥の方へと子供たちの手を引きながら、走り去っていく。
この映画の重さに圧倒された帰り道、劇場に向かうときから巨大な看板が気になっていた安室奈美恵の「BEST FICTION」を衝動買いしてしまう。生まれて初めて安室奈美恵のCDを買う。そして聞く。感動してしまう。闇の子供たちの最後にかかる曲は、サザンではなく、安室ちゃんにすればよかったのになあ。