さようなら

「さよなら。いつか分かること」
娘が部屋でテレビを見ている。テレビの画面にはチェイニー国務長官の記者会見が写し出されている。そこで国務長官アメリカは建国以来の知恵として対外的に弱さを見せることは外国からの攻撃を避けられないため、弱さを見せることはしない、といったような趣旨の発言が切り取られている。イラク戦争の始まりの理由が無根拠であったことがアメリカ全体に広まり始めている状況を受けての発言として。
「さよなら。いつか分かること」には「弱さ」が満ち溢れている。妻の死を軍人から知らされたジョン・キューザックは学校帰りの娘たちにフロリダのテーマパークに行こうと誘う。イラクで戦死した母親の死の知らせは映画の冒頭すぐにやってきた後、娘たちに母親の死を父親が告げるまで、フロリダまでの車中のシーンでこの映画の多くの時間は費やされる。さながらロードムービーのように。母親の死を娘に告げることに向かって進むこの映画は、フロリダまでの道中のシーンに多くを費やす。フロリダでの父親から娘たちへの告白を先延ばしにするかのように。途中に立ち寄る祖母の家には、30歳を過ぎても大学へ入り直すとい無職の父の弟がいる。弟はイラク戦争にうんざりしている。国家のために死ぬことなんて考えられない。祖母が不在の部屋で衝突する二人はどちらも自分の主張の正しさを碓かめる術もなく、妻がイラクで戦死した事実を前に泣きじゃくるしかない。祖母の家を後にした親子はまだテーマパークには到着しない。大量の衣類が販売されているショッピングモール。父親の反対をおしきり耳にピアスを開けた娘たち。レジで会計を済ませようとすると、次女の姿がない。長女と父親で次女を探す。次女はショッピングモールで売られている小さな家のミニチュアの中で座っている。父親は次女がその中で座っている家のミニチュアの中に入っていく。「いい壁、いい屋根、いい家だね。」声を掛ける。もう母親は帰ってこない。死んでしまったことは分かっている。父親から告げられるまでもなく娘たちにも。小さなミニチュアの家が少し遠めから捉えられる。母親の不在を条件としてこれから生きて行かなければならない父親、長女、次女、それぞれの未来をミニチュアの家を遠くから見る。テーマパークでは、全てのアトラクションで遊んだ。映画はすぐにテーマパークでのシーンを終え、帰り道、浜辺で父から娘たちへの告白の場所を用意する。既に母の死を知っている娘たち、そしてそれを告げる父も言葉で伝えられ、伝えることでただただ涙を流すことしかできない。父親は二人を両手で抱き締める。
この映画には「弱さ」が満ち溢れている。弱さを見せないことを矜持とする国アメリカで、母親の死を前にして弱さだけを示し続ける。母親の死になす術もなくテーマパークへ自動車を走らせるしかなかった父親は、弱さを娘たちとともに噛み絞める。「弱さ」を持ち続けること。「弱さ」を隠さないこと。この映画で示される「弱さ」は決して「強いこと」、「強さ」の反対ではなく、今生きている世界を親子という限られた材料、環境のなかで生き続ける条件のようなものではないか。この「弱さ」を写し続けられるうちは、アメリカ映画を見続けようと思う。